2013年2月7日(木)

渋谷の歴史Ⅱ 多摩川の砂利を運んだ玉川鉄道と大東急を作った五島慶太氏

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

雑誌「東京人」2013.3月号で渋谷の歴史が特集されていました。その中の玉川鉄道、現在の東急田園都市線の歴史をまとめてみました。

玉電の愛称で呼ばれた玉川鉄道は、渋谷駅に接続した最初の郊外鉄道です。1907年(明治40年)に、渋谷-三軒茶屋-玉川間(今の国道246号線ルート)を通る路面電車が開通します。明治40年の渋谷駅西方ですから、まだ都市住民もいない田園地帯です。玉電は人を運ぶと言うより、多摩川の砂利を運ぶための重要路線の位置づけで開業しました。鉄道許可時の出願願いにも「玉川砂利電気鉄道」と書かれていたそうです。

明治から大正に入り、東京の近代的都市づくりが始まると、コンクリート構造物の建物が急増します。その骨材として重要な砂利の需要も一気に高くなり、多摩川、相模川、渡良瀬川、利根川あたりから東京に砂利がどんどん運ばれます。特に関東大震災後の復興需要で砂利需要が拡大します。玉電から運ばれる砂利は、終着駅の渋谷駅に降ろされますが、当然ながら渋谷駅に砂利の集積場が設けられます。そうか、渋谷駅に砂利置場か!大正の終わりから昭和初頭にかけての渋谷は、そう言う街だったんだ!しかし、どの辺りに砂利は集められたのか?

答えは今のJR渋谷駅辺りです。なんで駅の回りにそんな土地があるのか?その当時の国鉄(官営鉄道)の渋谷駅は、もっと恵比寿寄りにありました。今の南側に離れて不便な埼京線ホーム辺りです。従って、現在のJR渋谷駅は、当時の渋谷駅から少し離れた土地だったのです。

東京急行電鉄を作ったのは、東急グループの創設者五島慶太氏(1882年~1959年)です。もともと農商務相を経て鉄道省に在籍したお役人でした。1920年(大正9年)38歳の時に退官し、その2年後に東急電鉄の前身の目黒蒲田鉄道を設立し、取締役になります。その当時、関西の阪急電鉄の経営者として活躍していた小林一三氏を見習って、私鉄事業の多角化を進めます。

1927年(昭和2年)には東京横浜鉄道(現在の東急東横線)が山手線の東側に接続します。沿線には、大岡山の東京工業大学、学芸大学前の東京府立高等学校(都立大学→現・首都大学東京)などの大学を誘致。尾山台や多摩川台(田園調布)などの分譲住宅地を開発していきます。

五島氏は新たな収益源として百貨店事業に進出。1934年(昭和9年)に地上を流れていた渋谷川を跨いで、地上7階地下1階の東横百貨店を開業します。1942年(昭和17年)には、戦時統制下で京浜電気鉄道(現在の京急)、小田急電鉄、京王電気軌道(今の京王帝都)を合併して“大東急”が成立します。そして1944年(昭和19年)東條内閣の運運輸通信大臣になります。

これだけ大きくなった大東急ですが、1948年(昭和23年)に大東急は崩壊し、東急から京急・小田急・京王の3社が分離することになります。戦時中のどさくさの時代に東急に乗っ取られるような形で合併した各社が、東急から離れることを強く望んでいたのが理由のようです。

追記1)五島慶太氏は長野県上田市隣接の青木村の生まれです。上田市の上田交通グループも東急グループの1社です。2009年に公開されたアニメ映画の「サマーウォーズ」。この時東急沿線の駅に、やたらこの映画のポスターと上田の宣伝が張られていました。東急電鉄と上田はそういう縁だったのですね。

追記2)長野県上田市の生まれで藤田観光の中興の祖である小川栄一氏がいます。小川栄一さんのお孫さんは、五島慶太氏のお孫さん(息子の五藤昇氏娘さん)と結婚していました。

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