2017年7月18日(火)

長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

2017年7月、南信州の阿智村「満蒙開拓平和記念館」に行ってきました。満蒙開拓団とは、昭和7年から終戦の昭和20年まで国策で満州国(中国東北地方の遼寧省、吉林省、黒竜江省、一部が内モンゴル自治区)に移住した日本人たちです。満州の「満」と、モンゴルの「蒙」で、「満蒙」です。

開拓団として移住した正確な人数は分かっていませんが、ウィキペディアを見ると約27万人、都道府県の当時の統計資料を足すと一般開拓団が約22万人、青少年義勇隊が約10万人で合計約32万人となっています。生きて帰れたのは移住した人の半分だけ。半分の人は、現地で命を落とし、一部は自発的に現地国民となり、また残留孤児となりました。

当日は満蒙開拓平和記念館の方にご案内をして頂き、貴重な話を聞くことができました(一部の説明は、ウィキペディアから抜粋)。

・国策として満蒙開拓団を考えたのは、日本の国土では養える国民も限度があり、新天地で農地を与え農業をできるようにするため(口減らしのため)。また、満州には関東軍が駐留していたが、その戦力を補うための屯田兵としての位置づけもあった。中国東北3省で農業を行い、ある時は対ソビエト戦用の兵士となるのが満蒙開拓団。もう一つ、16歳以下の少年たちの「青少年義勇隊」として渡った人たちもいる。

・満蒙開拓団として送り込むためのスローガンは、「五族協和」と「王道楽土」。五族協和とは、日本人、漢民族、満州人(清国)、モンゴル人、韓国人が共存してアジアの国を良くしていこうという思想。王道楽土とは、アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造るという意味。

・満州行きを管掌していた省庁が「拓務省」。外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当していた。昭和17年に大東亜共栄圏を包括的に管理する大東亜省が設置されると、拓務省は、大東亜省、内務省、外務省などに分割された。

・長野県は満蒙開拓団でも約3.7万人を送り込み、その中でも南信州一帯は比率的に多くの開拓民を出していた。当時の世界経済は世界大恐慌にあり日本経済も沈んでいた。当時の長野県の主要産業は養蚕業だったが、生糸価格が暴落し多くの農家が困っていた。満州国に渡ると20町部(ヘクタール)の農地と、1000円の現金(家が1件建てられる価値があった)がもらえることになっていた。しかし、個人には現金が渡されず、開拓団へ学校、公民館、道路、水道整備などの公共施設建設のためにお金が渡された。

・当初は荒れ地を開拓するものと思って渡ったが、元々あった中国人たちの土地を満州開拓公社等が安値で買取り、これを開拓団に与えた。農地を奪われた中国人農民は被害者であった。開拓団として渡った人たちも、開拓するつもりで行ったのに現地農民の土地を取り上げてしまって後味の悪さが残った。最初の頃は日本ではあり得ない広大な農地で農業をできるということで夢を膨らまして渡航したが、段々移住者が集まらなくなっていった。そうなると、各県、各地域に強制的にどの村から何人出せという強制が始まった。

・当時の関東軍は最強の軍隊と呼ばれたが、南方戦線に主力部隊が送られ満州はがら空きの状態だった。関東軍参謀軍はソビエトが攻めてきた時には満州北部は捨て、新京(現・長春)辺りの南方ラインまで撤退する作戦を立てていた。当初から多くの開拓団を送った北部地域を守ることができないことは認識していた。

・戦争末期になり、8月6日に広島、8月9日に長崎に原子力爆弾が投下された。間髪を置かず、8月9日にソビエト軍が侵攻し、あっという間に満州国を占拠した。既に満州を守る軍隊はおらず、開拓団ごとにてんでバラバラに逃げるしか方法がなかった。逃げる最中に捕虜となることを潔しとせずに集団自殺する開拓団もあった。女性はソビエト軍にレイプされてしまうことから、できるだけ女性と分からないように髪を切り、汚れた格好をして逃れる努力をした。逃げる間にソビエト軍に捕まった男性はシベリアに抑留され、数年の間強制労働を課せられた。過酷な抑留生活であり、多数の人たちが亡くなっていった。

・戦後、引き揚げ実現に奔走したのは、満州の製鉄所にいた丸山邦雄氏ら3人。丸山氏らは命からがらに満州を脱出して、日本に潜入。マッカーサーに面会して邦人引き揚げを直訴した。日本占領軍幹部も満州に残された日本人達の悲惨な状況を認識し、ようやく日本に帰国できるように動き始めた。また、カメラマンの丸山邦雄氏が職員に扮して満州に入り、満州に取り残された人たちの悲惨な状況の写真を日本国に送り、その窮乏状態が明らかになった。

・移住した人たちは、元々日本から出て行った人たちであり、生まれ故郷に帰っても耕す農地がない人も大勢いた。生まれ故郷に残ることができず、国内の他所の土地に再び移住した人も多い。オウム真理教サティアンで有名になった山梨県上九一色村も開拓団が帰国後に開拓した開発地。成田空港拡張反対運動を行った三里塚地域の方も開拓団の帰国した人たち。

・子供たちの多くは日本に帰ることができなかった。残留されてしまった子供たち、残留婦人たちだけで1万人くらいいると言われている。日本に帰国する時に大勢の子供が亡くなり、また過酷な道中に生き別れとなった。知り合いの中国人に託した人、上手く育ててくれと着物に巻いて道端に置いた人。その子供たちを育てれくれたのが現地の中国人。かわいそうだと育ててくれた人もいるが、大きくなれば働き手になるという理由で育てた人も多い。孤児として育った人もその後辛い人生を送った人が多い。残留孤児たちがようやく日本に帰ることができるようになったのは、昭和 年になってから。中国残留孤児は総勢2818人(平成27年3月31日時点)が判明している。

・この残留孤児たちが帰国できるように生涯を捧げたのが、阿智村から満蒙開拓団として中国に渡った山本慈昭(本名は山本梅雄)氏。武田信玄が死んで弔われた場所として有名な長岳寺住職であり、地元小学校の教員だった慈昭さんは、終戦まじかの昭和20年5月に国民学校の先生として1年の約束で中国に渡る。再三、開拓団として渡ることを断り続けたが、町の有力者からどうしても行ってくれと頼まれ、奥さん、小さい娘さん二人を連れてのことだった。僅か3カ月で終戦となり、開拓団は各自の判断で逃避する。しかし、慈昭さんはソビエト軍に捕まりやがてシベリアに抑留されてしまう。

・慈昭さんが日本に帰国できたのは昭和22年になってから。阿智村に戻ると、開拓団の仲間から奥さんと娘さんは逃げる途中に死んでしまい、開拓団の8割が帰れなかったと聞かされる。その後世相も落ち着いていく中、仲間たちの遺骨を拾うべく昭和39年に訪中した。中国の周恩来首相は慈昭さんたちを歓迎したが、遺骨収集は認められなかった。満州には残留孤児が大勢いることを知る。昭和40年に中国残留孤児の方から手紙が届き、今も大勢の残留孤児の方がいることを知る。その後大勢の残留孤児の方たちとやり取りをして、何とか帰れるように外務省に交渉するもまともに取り合ってくれなかった。NHKが取材に協力してくれ、昭和48年に放送された番組で、中国残留孤児の実態が世に知れることになった。

・昭和56年から残留孤児たちが帰国できるようになり、慈照さんの長女が中国で生きていることが分かった。その長女とも昭和57年にようやく中国で涙の再会を果たすことができた。山本慈昭さんの実話は、「望郷の鐘 満州開拓の悲劇」として平成25年に映画化された。主演は内藤剛氏。

・平成28年11月に天皇、皇后両陛下が満蒙開拓平和記念館の見学に来てくれた。1週間前に三笠宮殿下が死去されたこともあり延期かと思われたが、陛下は予定通り訪れてくれた。元々天皇陛下が天皇在位中にどうしても満蒙開拓平和記念館を訪れたいという希望され、それを実行してくれた。両陛下が来訪されるまでの1カ月間は、地元は非常に大変だった。宿舎は格式よりも、警備のしやすさで選ばれた(後ろが山で、目の前が川)。でこぼこで手が付けられていなかった道路も綺麗に整備された。いらっしゃるルートを何度も確認し、手違いがないかを検討した。両陛下が施設を見学される時は、時間の多い少ないで差をつけてはいけないという配慮から、どの施設もきっちり20分と決められている。元々、ご静養される軽井沢の近くに、満州から帰国した人たちが住む大日向村がある。ここには、昭和天皇、今上天皇は戦後に何回も訪問し、満蒙開拓団のことは存じ上げていた。ただ、記念館来訪をご希望されたのは、「嗚呼、満蒙開拓団」という映画をご覧になり、ある方から記念館の存在を知らされ、是非行きたいと希望されたもの。

・両陛下が来て頂いたことで新聞、ネットニュースでも大きく配信され、記念館も少し有名になった。陛下のおかげで昨年に比べて、来場者数も大きく伸びている。退位される前に訪れてくれたのは陛下のご温情だと思っている。

・満蒙開拓平和記念館は完全に民間だけで運営されており、行政の援助に頼っていない。入場料500円もらっているが、現在年間3万人が来場してくれていて、この収入で何とか運営を行っている。最近は修学旅行や平和学習のコースに入れてくれる学校も増えている。職員は4人だけで、他で関わってくれている人たちは皆ボランティアで活動してくれている。建設資金に関しては行政の補助を一部貰った。近隣の根羽村は特産の杉の丸太の柱を16本寄贈してくれた。土地に関しては、有り難いことに阿智村が無償貸借で貸してくれている。そういう地域の皆さんのおかげで何とか運営できている。少しでも大勢の人に見て頂き、過去に満州でどういう事実があったかを知って欲しいと切に望んでいる。

 

満蒙開拓団を送り出したのは、日本だけでは食べさせていくことはできない。また国防上の理由はあったのでしょうけど、戦後できるだけ取り残された人たちを早く帰国させる努力はできたはずです。それを怠ったのは、満蒙開拓団の悲劇をフェードアウトしたかった政府と各省庁です。思い出したくない満蒙開拓団の悲しい歴史ですが、正確な歴史を知っておくことは、日本をより良い国にするために必要なことだと思います。

追記 「残留孤児の父」と呼ばれた山本慈昭さんが長岳寺の鐘に刻んだ言葉です。

想い出はかくも悲しいものか

祈りをこめて 精一杯つけ

大陸に命をかけた同胞からに

この鐘の音を送る 疾く瞑せよ

日中友好手をつなぎ

共に誓って 悔を踏まじ

大陸に命をかけた同胞からに

夢美しく 望郷の鐘

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

最新記事

不動産業界コラム

過去の記事

ページの先頭に戻る↑