2013年5月8日(水)

花街(かがい)としての新橋

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

最近銀座の町を歩くと「東をどり」と書いたポスターがよく貼ってあり、着物を着た芸者さんの写真が載っています。いわゆる「新橋芸者」の踊りが東をどりですが、その新橋芸者とはどの辺りにいたのでしょうか?そんな話が、雑誌「東京人」2013年5月号に出ていました。ちなみに「花街」と書いて、「はなまち」と読むと思っていましたが、この雑誌では「かがい」と書かれていました。

・新橋の花街は幕末の1857年(安政4年)幕開けと新しい。銀座8丁目あたりに、能楽の宗家(本家)である金春太夫が土地を拝領し、金春(こんぱる)屋敷を建てた(銀座通りからJR側に1本目の通りで、現在も「金春通り」として名前を残しています。)。金春屋敷ができた後に、芸事の師匠たちが次々と移り住み、芸処の町となる。

・当時の新橋・銀座には、武家の下屋敷が建ち並んでいて、料理茶屋や船宿の宴席も多かった。宴席に華を添えるために、芸事の女性師匠の一人が幕府に「酌取御免」を直訴し、公に芸事を披露する許可を得た。これが新橋花柳界の始まりとなる。

・江戸時代後期の一番の花街は、深川(今の門前仲町)や柳橋(今の浅草橋)。薩摩、長州、土佐などの藩士は田舎侍と相手にされず、新興の新橋の花街を使っていた。これが明治になり、田舎侍と言われていた薩長土肥の武士たちが政府高官、役人として出世していく。これにつれて新橋の地位も上がり、柳橋と争うまで隆盛となる。「新柳二橋(しんきょうにきょう)」と言われるほど発展した。1872年(明治5年)に、新橋-横浜間に鉄道が開業し、新橋の町が東京の表玄関になっていく。

・明治後期に名古屋で鉄道開発の祝賀会があり、井上馨が名古屋まで新橋芸者を引き連れ芸事を披露した。当時の名古屋は芸事も盛んで踊りのレベルも東京より高く、新橋芸者の芸はこんなもんかと馬鹿にされてしまう。結果、新橋花柳界は日頃世話になっている井上馨に恥をかかせてしまった。

・これではいかんと、新橋花柳界の重鎮が一念発起。全国から宗家・家元を師匠として招き、稽古に邁進。芸者たちの間でも自分たちの芸事を披露する歌舞伎場を持ちたいと言う声が上がり、こうしてできたのが新橋演舞場(1925年、大正14年)。杮落しで上演されたのが「東をどり」。その後新橋演舞場は、セリフのある芝居を仕立て、豪華な舞台として人気を集めて行く。

なるほど、新橋芸者イコール金春芸者で、銀座8丁目が本拠地なのか。金春太夫の金春屋敷があったから金春通りになっていき、銭湯の「金春湯」があったから金春通りになったわけではないわけだ。

それにしても、鉄道省のパーティーに大挙して芸者を連れて行けるなんて、政府高官には良い時代でした。そんでもって「先生、芸事の劇場を作ってくれなはりまし」と頼まれると、新橋演舞場を作ってしまうなど、政府高官もやりたい放題です。しかし結果的にできた物が現在も立派な文化施設として残っている。あまり堅苦しいことを言っていると、文化は育たないのかも知れません。

追記1)井上馨が外務卿だった時に、西洋の外交官を招く迎賓館として造ったのが鹿鳴館(ろいくめいかん、ジョサイア・コンドル設計、1883年竣工)です。この間まで髷を結っていた人たちが西洋人に交じって舞踏会ですから、冷や汗ものだったでしょう。この時一緒に連れて行く女性として駆り出されたのが、新橋芸者だったそうです。東おどりに西洋のワルツに、新橋芸者も芸事に大忙しだったんですね。

追記2)新橋芸者で薩長土肥のお侍と付き合い、やがて奥さん、妾となった人も大勢いました。代表的な人では、木戸孝充、陸奥宗光、伊藤博文の奥さん、西郷従道の後妻さんが新橋芸者出身だったそうです。

追記3)深川芸者は、江戸の辰巳(東南)の方角にあったことから「辰巳芸者」とも呼ばれていました。深川は明暦ごろ(1650年くらい)から、主に材木の流通を扱う商業港として栄え、金持ちの商人同士が遊ぶための大きな花街が育ちました。門前仲町に何となく料亭が残っているのも、深川芸者の名残からなのかも知れません(深川不動尊、富岡八幡宮の参拝客がいたからかも知れませんが)。

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