2014年7月20日(日)

西南の役と熊本・田原坂(たばるざか)の戦い

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 大学時代の友人と5月に熊本ツアーをしました。熊本城に行く前に、熊本市の北方約10kmにある植木町田原を訪れました。明治10年の西南の役で重要な戦場の舞台になった田原坂(たばるざか)古戦場があるからです。

田原坂に着くと、そこには何の変哲もない坂道があるだけです。ここで政府軍と薩摩軍が何故17日間も激しい攻防を繰り広げたのか。この理由は、坂の上にある「田原坂資料館」に行くことで理解できました。

 田原坂資料館から西方を見ると、海の向こうにうっすら雲仙普賢岳が見えます。田原坂の西方の麓には平坦な田畑が広がり、何もこの坂道を行かなくても良い気になります。「この下の田畑のところは、昔は雑木林で通り抜けできなかったのです。明治10年に熊本城に行くには、この田原坂を通る道しかなかったのです。」館内のボランティアガイドさんが教えてくれました。

・薩摩の旧藩士が明治政府のやり方に反発し、西郷隆盛を担いで反乱を起こしたのが西南の役。武士としての食い扶持を取られ、刀を取り上げられ、武士と言う位から平民になってしまった。各地で旧武士の反乱が起こり、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱などが起こり、最後の大きな反乱が西南の役。

・明治10年2月に薩摩軍が薩摩を出るとすぐに政府軍は熊本城に入城。政府軍4000人が熊本城に籠城し、薩摩軍13000人が熊本城をぐるっと取り囲む。この籠城した政府軍を北部から助けに政府軍と、そうはさせないと戦ったのが薩摩軍で、田原坂で激突した。

・田原坂は、江戸時代初めに熊本城主・加藤清正が作った戦略的街道で、窪地にある田原坂に道を通した。窪地にあることで、敵が熊本城を攻撃しに来た時に、坂の上から鉄砲、矢を射つ。逃げ場のない敵は、一網打尽にされてしまう。また雨が降ると道がぬかるみ、迅速に行動できなくなる。

・政府軍と薩摩軍が戦った時に、初めて加藤清正の作った戦略が薩摩軍に生かされた。兵器で圧倒する政府軍が、坂の上から攻め立てた薩摩軍にいいようにやられてしまった。特に江戸末期に重要兵器になった大砲を運ぶ人たちは、薩摩兵に狙い撃ちにされてしまった。

・薩摩軍は雨だと使えなくなってしまう火縄銃しか持っていなかった。これに対して政府軍は、近代式のスナイドル銃を完備。それでも全国から寄せ集めの政府軍に対して、示現流(じげんりゅう)で鍛えられた薩摩軍は刀で戦いを挑み、政府軍も数多くの戦死者を出してしまった。

 

17日間の攻防の末、政府軍はようやく田原坂を突破し、政府軍が籠城する熊本城まで援軍として辿り着くことができます。

 熊本城は加藤清正が豊臣秀頼が大阪から逃げてきても大丈夫なように堅牢に作られた城。戦いに巻き込まれることなく明治維新を迎え、明治10年の西南の役で始めて戦いの舞台になります。

燃える前の熊本城

焼け落ちる前の熊本城の写真

薩摩軍の放った火で熊本城(天守閣、本丸御殿)は燃え尽きてしまった。そう記憶していたのに、実はそうではありませんでした。1)薩摩軍の攻撃説 2)戦いやすくするためにわざと政府軍が火を点けた説 3)失火により燃えてしまった説 等々あるようですが、どれかは詳しく分かっていません。田原坂資料館で説明して頂いたボランティアガイドさんの話だと失火説が有力とのこと。

熊本城で戦うこと45日間、とうとう薩摩軍は政府軍を攻略できず撤退。戦いには参加していないものの、この報告を聞いた西郷隆盛が言ったのが「加藤清正公の城に敗れた」。これも後から付け加えられた話のようです。

 この田原坂の戦いには後に歴史に名を残す多くの人が関わっていました。

・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)

政府軍のトップは、有栖川宮。旧薩摩軍の反乱が起こると、鹿児島県逆徒征討総督に就任。西南戦争における功により、明治10年に西郷隆盛に次いで史上2人目の陸軍大将になった。

現在でも港区広尾の有栖川公園で有名。有栖川公園は元々南部藩の下屋敷だったところを明治維新後有栖川宮の邸宅となった場所。

・山縣有朋 長州出身

 政府軍の事実上の総指揮を執ったのが山縣有朋。9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った。元々は西郷隆盛は恩人で、隆盛の引きで陸軍上層部に上がり、日本陸軍の土台作りや徴兵制を作った。明治5年に陸軍大輔になる。

 後に1889年と1898年に内閣総理大臣。日清戦争にも司令官として参加し、日露戦争でも参謀総長として日本を勝利に導いた。当時のライバル伊藤博文がハルピンで暗殺された後の明治末期から大正初期にかけて山縣の発言力は増大し、長州出身者を中心に一大勢力となった。

・乃木希典(まれすけ)長州出身

 西南の役の時は少佐で、田原坂で指揮を執る。しかし坂を上がろうとしては多くの死者を出してしまう。乃木将軍の部隊は兵力で勝る旧薩摩軍部隊に敗れ、シンボルである連隊旗を取られてしまった。これを恥じた乃木将軍は何度も自殺を図った(日露戦争の203高地での戦いのプロローグのようで、きれいな勝ち方には縁が無いのでしょうか)。

・犬養毅 岡山県(備中)出身

慶応大学在学中に21歳で従軍新聞記者となり、西南の役では記者として記事を書く。政府軍兵力増強のため警察から選抜されたのが「抜刀隊」で、抜刀隊に数多く志願していったのが、薩摩に仲間を多数殺された会津藩士。薩摩兵に会津出身の抜刀隊が「戊辰(ぼしん)のかたき」と叫んで切りつけたと記事を書いた。本当にこう叫んだかどうかは良く分かっておらず、犬養毅の創作との話もある。

その後政治家となり1923年に内閣総理大臣。1932年(昭和7年)5月15日の五・一五事件で暗殺される。 

・児玉源太郎 長州の支藩出身

西南の役では、政府軍として熊本城に籠城する。後の日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した名将。日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、前任者が急死し満州軍総参謀長となった。

 

西南の役が薩摩軍が敗れることで終わると、旧士族の意識も急速に変わっていきます。日本が近代国家に生まれ変わるためには、激しくも必要な戦いだったのでしょうか。

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