2014年7月30日(水)

横須賀で保存される「戦艦三笠」

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 5月に仕事で横須賀中央に行った折、初めて三笠公園に行き、記念艦「三笠」を見学してきました。三笠は明治38年のロシア・バルチック艦隊と戦った日本海海戦時の日本連合艦隊・旗艦で、東郷平八郎大将が乗り込み海戦の指揮を執りました。入場料600円を支払い、コンクリートで岸壁に接岸された三笠に乗り込みます。海上自衛隊のOBの人がいて、色々聞くことができました。記念艦三笠 (1)

東郷平八郎元帥銅像と接岸された戦艦三笠

 甲板に上ると、巨大な砲門が目に入ります。前後に2門づつ、計4門ある主砲40口径30.5センチ砲です。砲門の長さは見た目8mくらいあります。最大飛距離10,000m(10km)。普通は8000mくらいの距離で撃ち合うのが、日本海海戦ではより近い6000mで撃ち合ったそうです。

三笠の主砲2門       主砲40口径30.5センチ砲

 砲弾は2種類展示されていました。長さが1mくらいある黒い砲弾と、長さが80cmくらいの茶色の砲弾です。黒い砲弾は相手の戦艦の鋼板を破るタイプで、茶色い方は着弾後に破裂し相手の戦艦を沈めるタイプの砲弾ということです。こんなでかい鉄の塊を8000mも飛ばして、相手の船にぶつけるのか。

記念艦三笠 (2)

巨大な砲弾2種類

 三笠は当時最先端だった英国の造船所で建造されています。それまでの戦艦の鋼板の厚さは40cmだったのが、最先端の製鉄技術で23cmまで薄くてきたそうです。鉄の重さが減った分、スピードが速くなり(最大18ノット)操作性能も優れた戦艦が生まれました。

 船腹にも多数の砲門(副砲)があります(15.2センチ単装砲14門)主砲より飛距離は落ちますが、7000~8000mは飛ばせるとのこと。この船腹の砲門をフル活用できるように、日本海海戦時には横向きとなり一斉放射しました。

 日清戦争後(明治28年)に、大国ロシアがアジア方面への野心を隠さなくなり、悉く日本と対立。三国干渉で旅順のある遼東(りゃおとん)半島を清国に返還させた後は、ロシア自らが遼東半島を含む満州一体を支配します。日清戦争で疲弊していた日本が戦う余力はあまりない中、明治37年にロシアとの交戦に踏み切ります。

 当時のロシアは日本の約3倍の戦艦を保有する海軍大国です。アジア方面はウラジオストックを母港とする太平洋艦隊、ヨーロッパのバルト半島を母港とするバルト海艦隊、黒海のクリミア半島を母港とする黒海艦隊の3艦隊で構成されていました。ロシア太平洋艦隊だけであれば日本には勝機がありますが、ヨーロッパ方面から応援でロシア艦隊(バルト海にいたのでバルチック艦隊と呼ばれる)が来ると日本海軍が非常に不利になります。バルチック艦隊が日本に来る前に、何とか太平洋艦隊を撃破し戦争を早く終わらせたいというのが日本の戦略でした。

 しかしロシア太平洋艦隊は、遼東半島の旅順港にいて外に出てこようとしません。戦艦の性能は日本の方が上回っており、直接戦うことは避けたのです。旅順港は入口が狭くくねっていて、外からは攻めづらい天然の要塞となっています。日本海軍戦艦が遼東半島に近づくと、陸地の砲台から一斉に砲弾が撃たれ容易に近づけません。

 日本軍は海から旅順港を攻めることは諦め、陸地から旅順港を攻められるよう戦略を変えます。旅順の高台にある二〇三高地を奪えば、ここから砲弾で旅順港を攻めることができる。一方旅順港入口には、日本は不要となった商船を3回に分けて何隻も沈めに行き、太平洋艦隊(旅順艦隊)が出られなくなるようにしました。

 二〇三高地奪回のために日本陸軍を指揮したのが、乃木希典将軍です。何度も突撃してはロシアからの一斉射撃を受け、12万人の内約6万人の死傷者という多大な被害を出しました。最後は陸軍参謀児玉源太郎の作戦で二〇三高地を奪います。

 実際には二〇三高地奪還の前に、ロシア太平洋艦隊との間で黄海海戦があり、太平洋艦隊(旅順艦隊)を撃沈できなかったものの、1隻を除いて上部構造を壊滅する戦果を得ていました。修理ドックの無い旅順では修理できず、実質的に壊滅状態でした。しかし、その情報が正確に得られていなかったため、最後まで二〇三高地に拘ってしまいました。

 日本はバルチック艦隊が来るまでの間に、短期間で黄海海戦で傷付いた戦艦を修理します。造船所では休みなく修理したので、これが「月月加水木金金」の語源となりました。また修理が完了した戦艦はすぐに海上にもどり、対バルチック艦隊を想定した猛特訓を行います。これにより砲弾命中精度を高め、ロシア軍の命中率3%に対し、10%まで命中率を高めました。

 一方のバルチック艦隊は、33,340kmもの長大な距離を半年以上掛けて日本に向かうことになります。当時日本と日英同盟を結んでいた英国の働き掛けで、スエズ運河を通れないようにしたり、英国の息がかかった国には入港できないように嫌がらせをしました。

 日本海海戦前年の明治37年10月と翌年2月に、バルチック艦隊はヨーロッパを出航。マダガスカル経由で明治38年5月にようやくインドネシアまで辿り着いて合流します。英国植民地のインドでも寄港できず、船員は憔悴しきっていたとのことです。この後バルチック艦隊はウラジオストックを目指しますが、日本としては対馬沖、青函海峡、宗谷岬沖、3ルートのどこを通ってくるか確信が持てませんでした。

 明治38年5月27日に仮装巡洋艦「信濃丸」が九州西沖でバルチック艦隊を発見し、「敵艦隊見ゆ」との警報を発信。受信した連合艦隊は直ちに出撃します。東郷平八郎大将連合艦隊艦長に、三笠艦長伊地知彦次郎大佐、秋山真之参謀。Z旗を掲げた戦艦三笠を旗艦とする連合艦隊とバルチック艦隊の間で、対馬沖で海戦が始まります。

記念艦三笠 (5)

 先頭を行く三笠は左へ160度展開する「敵前大回頭」(トーゴー・ターン)を始め、バルチック艦隊の行く手を塞ぎます。無防備状態のトーゴー・ターンの間にバルチック艦隊は旗艦三笠を目がけて一斉放射をしますが、長旅で疲れていたロシアの命中率は低くほとんど被害はありません。その後は日本連合艦隊が特訓の成果で、次々とバルチック艦隊に砲弾を浴びせます。

記念艦三笠 (4)             船腹の副砲

 5月27日、28日と激しい戦闘が続き、ロシア艦隊を降伏させました。バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失い、被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻のみでした。1回の海戦でこれほど大差で決したのは、後にも先にも日本海海戦だけで、世界の軍人を驚かせました。アジアの新興国日本が大国ロシアの艦隊を木端微塵に撃ち破ったのですから。この偉業が後の戦艦三笠保存に外国海軍関係者の賛同を得ることに繋がったのでしょう。

下記は、記念館三笠のHPからの抜粋です。

・東郷平八郎大将率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し未曾有の勝利を収めたことで、ロシアは継戦意欲を失い、アメリカ大統領の仲介で米国ポーツマスにおいて日露講和条約が締結されました。日露戦争の勝利により、日本はロシアの植民地になる危機から逃れ、独立を全うすることができました。また、有色人種として蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に希望を与え、独立の気運を促進しました。

・当時16歳であったインドの独立運動家で後に首相となったネルーは「日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。アジアの一国である日本の勝利は、アジア全ての国々に大きな影響を与えた。」と述べています。

・中国の革命運動の指導者であり「建国の父」と仰がれている孫文も、「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った」と述べています。

・軍事技術の急速な進歩に伴い新鋭戦艦の建造競争が激化したため、ワシントン軍縮条約により、日・米・英の艦艇保有隻数を制限することになりました。ワシントン軍縮条約に調印した我が国は、大正12年9月、艦齢の古い「三笠」を軍艦籍から除き廃棄することを決定しましたが、日露戦争の勝利に貢献した戦艦「三笠」を、独立を守った誇りの象徴として永久に残すべきとの声が内外で高まり、記念艦としての保存が閣議決定され、国際軍事委員会においても承認されました。

・太平洋戦争終戦後に連合軍が進駐し、米海軍司令部はソ連が要求する三笠解体要求と日本側の保存要請を考慮し、妥協策として「三笠」の艦橋、大砲、煙突、マストなど上甲板構造物を撤去することを条件として、横須賀市に「三笠」の保存・使用を許可しました。しかし痛くされた民間企業は、上甲板構造物を撤去した跡に、水族館、ダンスホールなどを設け、「三笠」を遊興施設に変えただけでなく、「三笠」の近くに保管されていた大砲、マストなどを売却してしまいました。

・昭和33年11月に三笠保存会が再興され、全国的な規模で「三笠」復元運動が始まりました。内外の募金1億6千万円、国の予算9800万円とにより復元工事が実施され、観覧態勢も整い、記念艦「三笠」は往時の姿を取り戻しました。 

追記1 展示の中で目を引いたのが、慶応大学第7代塾頭・小泉信三氏の三笠保存会設立時の総会においての演説内容です。「自尊自重の精神のない国民が、他国の人々の侮りを受けるのは当然であり、自らを重んずる精神のないものは、弱小のものに対しては不遜となり、強大なものに対しては卑屈になることは避けがたいことであります。

 他国の武力に屈するのやむなきに至った日本人は国民としての誇りを失い、心の支えを失って、退廃に陥りました。道徳的努力を無意味なものとして嘲る思想、ひたすら官能の満足を追い求める傾向、さらに、何者かに媚びる気持ちから、しきりに日本及び日本人を侮り嘲る風潮が生じています。記念艦「三笠」が元の姿に復元され、自尊自重の精神を取り戻すことができることは、申しようもない喜びであります」。              
 前段の部分はそのまま今の韓国に当てはまる言葉ではないでしょうか。

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