2014年11月3日(月)

福岡の城下町を作った黒田官兵衛

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 10月下旬に福岡の仕事をしたついでにもう一泊し、福岡の街を楽しんできました。11月2日なら唐津のくんち祭りがあったのですが、その前の日だったので、福岡市で行われている街歩きツアー「博多情緒めぐり」に参加することにしました。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で福岡は盛り上がっていて、福岡の歴史に触れておきたいと思ったからです。

 前日、福岡市役所でもらった小冊子「博多ものがたり」を事前に読み、福岡の歴史を勉強しました。

1.平安時代から鎌倉時代

博多は大昔から中国大陸、朝鮮半島との貿易の窓口だった。遣唐使船も博多から出ていた。鑑真、最澄、空海、菅原道真など多くの有名な人たちが博多を訪れている。平清盛の時代に、博多から大陸との交易を盛んに行い、平家の財力の礎を築いた。

 臨済宗を興した栄西(ようさい)は、宋から持ち帰った茶の種で日本中に茶を広めた(八女茶、知覧茶も栄西のお陰)。当時はビタミンを取る薬としての役目があった。栄西が日本で最初の禅寺を築いたのが、博多駅近くにある聖福寺。

 1274年と1281年の蒙古襲来時に、博多は前線基地となり多大な被害を受けた。

2.室町時代から戦国時代

 中国が元から明に代わると、日明貿易が盛んに行われた。巨万の富が集まる博多は、戦国武将たちの争奪の的となり、幾度となく戦乱に巻き込まれた。その貿易権利を自分が取るために、大内氏、少弐氏、大友氏らが昔から争っていた。戦国時代後半の1580年には龍造寺隆信が筑前国に進撃し、博多の町のほぼ全土が焼失した。続いて島津義久の軍が復興した博多を占領したが、1586年8月に博多を焼き払って撤退した。

 1587年戦乱で荒れ果てた博多の街づくり再建を託されたのが、黒田官兵衛に秀吉奉行陣の石田三成、小西行長ら五人の町割り奉行達。入り江や湿地を埋め立て、息浜と博多浜を一つの町とし、最初の縄張りを行った南北の街路を「一小路(市小路)」とし、町を袈裟の七条になぞらえて七小路(七筋)七堂七厨子七口七観音とし、七小路に面する町々を「流」(ながれ)という単位に集合させた。この復興事業は世に言う「太閤町割り」。また荒廃した櫛田神社に社殿を寄進した。

 櫛田神社の山笠の一つには、この博多復興の恩に報いるため黒田官兵衛の他に、豊臣秀吉、そして石田三成も飾られている。石田三成は悪役になっているが、福岡の人たちは恩義を忘れていない(この部分はNHKの歴史ヒストリアから)。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵時に九州の前線基地になったのが佐賀県唐津の名護屋城。食糧などの兵站供給基地になったのが博多の街だった。当時の福岡は博多が中心の商業都市で、城下町は近くになかった。

3.関ヶ原合戦後に黒田親子が入城、城下町つくり

 黒田官兵衛、長政親子は1600年関ヶ原合戦後、関ヶ原の論功行賞として長政が得た筑前(福岡)52万石の地に移った(それまで黒田家は中津)。一度は小早川隆景が築城した名島城(現・福岡市東区)に入城したが、九州第一の商業都市・博多を取り込んだ城下町作りを考え、現在の福岡市中央区辺りを干拓し、城下町を作った(江戸の町を作った徳川家康に似ています)。この地域の名前は「福崎」とし、後に黒田家が大きくなった備前福岡村にちなんで「福岡」と改称した。黒田親子入城までは博多はあったが、現在の中央区中心部(天神、大名、赤坂、大濠公園)は無かった。

 

 街歩きツアー「博多情緒めぐり」は、午前中は「城下町北コース」ツアー、午後は「崇福寺コース」に参加しました。参加費はそれぞれ500円と600円。ボランティアガイドさんに、福岡市の職員らしき方が付いて案内してくれます。当日は小雨が降る天候だったので、お客は午前が3人、午後が10人と言う小じんまりした聞きやすい人数になりました。いろいろ為になるお話を伺いましたが、その中の幾つかを書いてみます。

1)海岸沿いに集めた寺院

 福岡は太平洋戦争末期に空襲でほとんど焼けてしまったので、昔から残っている歴史的建物は少ない。現在建っている寺社仏閣はその後再建されたものが多い。その中でも昭和通り北側沿いに寺がいくつも並んでいる場所がある。これは黒田官兵衛が全国から集めた寺院。

 寺院を横にずらっと並べた理由は、お寺の御堂は戦となった時の前線基地とするため。当時はこの寺院が並んでいる辺りが海岸線だった。海から敵が侵略してきた時に、寺院に侍が集結し防波堤になるという設計思想となっている(ピエール瀧主演の「城下町に行こう」で熊本編をやっていた時にも、寺院は戦いの時は侍が集結する前線基地になるという同じ説明がありました)。いくつかのお寺の住職は、黒田家の軍事顧問を兼ねていた。坊さんなら他所の領地を訪ねるのも怪しまれないで済むという利点があったから。

2)天神の名称の由来

 今まで何度も歩いていた天神の明治通り。天神交差点から中洲方面に行って200mくらいに水鏡天満宮があります。天満宮ですから菅原道真を祀る神社です。大宰府に流刑に近い形で左遷させられた時に、博多の地を経由して大宰府に行きました。他の場所にあった天満宮を1612年に黒田長政が福岡城の鬼門に当たる現在地に移転させたそうです。天満宮、すなわち天神様があるから、現在のように「天神」と呼ばれるようになったのです。

3)一般開放した黒田家菩提寺の「崇福寺」黒田家墓所

 黒田家の菩提寺は、千代にある崇福寺です。この奥の方にある黒田家代々の殿様達の墓石が一般に見られるようになっています。2013年に黒田家の現当主が福岡市に寄贈し、それから一般人が中に入れるようになったそうです。黒田官兵衛の墓石は、他の墓石が白いのに対し赤茶けていました。墓石の成分が違うからでしょうか。黒田家墓石が福岡市の管理になってから、崇福寺の本堂を夜はライトアップしています。

4)江戸時代の商業中心地は唐津海道(昭和通り近く)

 現在の福岡市一番の中心地は天神で、次が博多駅周辺ですが、江戸時代末期までは唐津街道沿い、今の昭和通り近くの幅員6mの唐津街道が商業の中心でした。お茶、海産物、米、油等を扱う沢山の豪商が集まっていました。秀吉絶頂の頃、中でも一番の豪商だったのが神屋宗湛です。お茶の名人でもあり、秀吉にも近く、博多の千利休のような存在だったそうです。豪商・神屋宗湛のお店の後には、豊臣秀吉を祀る小さい「豊国神社」があります。

 呉服町駅周辺も呉服が付くくらいですから、元々はファッションの中心地だったところです。今は天神にある大丸デパートも、元々は呉服町(明治通りと大博通りの角地)に1953年開業しました。しかし商業ゾーンとしての呉服橋の地位低下、天神の隆盛となり、1975年に天神へ移転。現在大丸デパート跡地は、呉服町ビジネスセンターが建っています。

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