2014年9月25日(木)

三業地(さんぎょうち)、花街とは何か

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 四谷の荒木町を舞台にした刑事物の小説「地層捜査」を読みました。時折行く金融財政事情研究会さんが荒木町にあり、この町の変遷を知ることができ楽しめました。小説のキーワードが、花街、すなわち三業地でした。

 大塚の線路沿いがそうだったとか、西新宿4丁目の十二社(じゅうにそう)辺りも三業地だったと、若い頃不動産業界の先輩に教わりました。料亭があって芸者さんがいてとは理解していましたが、本当のところ正確には分からないままでした。

 それでは三業地とは一体何なのか、最近覚えた知識でまとめてみます。

1.三業種とは

 三業地とは、料理屋、茶屋、置屋の三業種が許可制で営業できた街を言います。料理屋は料理屋そのものですが、待合とは料理を食べながら芸者と遊ぶ場所です。今でいう料亭です。当時の待合では料理は作らず、料理屋からデリバリーをしていました。女の子(芸者さん、今で言えばコンパニオン?)も待合では抱えることができません。芸者さんは、芸者を抱える企業体、すなわち置屋から派遣されてきます。

 何故、料理屋、待合、置屋とそれぞれ許可制にして、兼業できないようにしたのか?1件の店で何もかもやらせると風紀上良くない、規制者側の目が行き届かないからと説明されています。待合では別室に寝具が置いてありました(酔っぱらって寝るためではありません)。

 東京では待合と呼ばれていますが、関西では茶屋と呼ばれています。金沢に行くと古い料亭街が「東茶屋町」として観光名所になっています。ここもお茶を飲んで寛ぐ場所ではなく、女性をはべらせお酒を呑んで、色々楽しむ場所であったわけです。

2.置屋(おきや)

 芸者さんを多数抱えて、待合に派遣するのが置屋です。多くは地方から中学生、高校生くらいの年齢の女性が預けられ、芸事を磨きながら芸者になっていきます。ただお酒を注ぐだけではなく、踊り、小唄、三味線などの芸事を仕込まれます。一人前になるには時間も掛かかるし、レッスン代も掛かります。置屋だけでこれらの費用は賄えないので、財力のある男性に費用負担をしてもらいます。これが旦那衆です。

 一人前の芸者になる前の女性が半玉と呼ばれています。料金(玉代)が半分だったことが名前の由来です。

3.検番

 三業地(花街)に必ずあったのが検番です。花街が上手く回っていくためのサービス業で、待合の予約、料理の手配、芸者の手配、芸者の送り迎え、芸者の荷物持ち、利用料金の徴収など受け持っていました。芸者の着物は女性の力だけでは着付けが大変で、検番の若い衆が着付けを手伝っていました。お客さんと夜を一緒にした芸者さんに着替えの普段着を早朝届けることや、時にはお客さんとのトラブル解消まで担当していたそうです。

4.江戸時代の出会い茶屋

 江戸時代の上野不忍公園近所には、出会い茶屋という物ができました。男女が逢引して待ち合わせる場所。今でいうラブホテルです。

 また、男性が男性を呼ぶラブホテルもありました。「日陰(ひかげ)茶屋」です。当初は女性と性行為が禁じられている(女犯・にょぼん)お坊さんが、「男性なら良いんじゃないの」とできたシステムです。最初はお坊さんがメインの顧客だったのが、後には一般の人にも利用が広がっていったそうです。

5.江戸時代の花街

 江戸時代に深川の岡場所から、「粋」を売り物とする辰巳芸者が生まれました。岡場所とは、飲む・打つ・買うが気軽に遊べる場所で、内藤新宿、千住、板橋などの宿場町や本郷、根津など色々なところにあった繁華街です。花街で有名だったのは、吉原を筆頭に、辰巳芸者の深川(今の門前仲町)、柳橋(今の浅草橋)、向島等でした。

 6.明治から戦前まで

 明治維新後に新橋付近に男女密会の場を提供する待合茶屋が開業しました。やがて芸妓(げいぎ)を呼んで飲食させる待合茶屋(後に「待合」)が流行しました。待合には寝具が備えられていて、芸妓や私娼と一夜を過ごすことが可能でした。待合は席料を取り、取り寄せた料理にも手数料を取り、両方で収入源としました。

 7.戦後の仕組み

 戦後は三業種の許可制がなくなったため、待合は料亭と名前を変えました。それでも芸者を自前で持つことまでは大変なので、置屋はそのまま存続しました。ただ年端もいかない小学生、中学生くらいの子を芸者見習いとして預かることは難しくなり、形式的に養女にするなどの方法も取られたようです。

 8.ラブホテル街に変身した花街

 渋谷の円山町は今では有名なラブホテル街ですが、ここも昔は花街で有名な場所でした。関東大震災で当時賑わっていた神楽坂、赤坂辺りが被害を受け、まだ被害が少なかった円山町に芸者が移り、戦後の高度成長期まで花街として栄えていたそうです。しかしオイルショックで経営が悪化した後は、一気に今のようなラブホテル街に変身しました。

 同じような話は仙台の花街だった立町でも聞きました。ここは20年強前のバブル時代まで料亭街として賑わっていたのですが、バブル崩壊で料亭経営が悪化。料亭が閉店になるたびに、ラブホテルに変わっていったそうです。地方では花街であった場所は有名ですから、ちょっとやそっとでは人々の記憶から消えません。従って、すぐに分譲マンションを作りましょうと言ってもそれは無理なのです。

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

最新記事

不動産業界コラム

過去の記事

ページの先頭に戻る↑