2015年5月26日(火)

江戸・東京 歴史の散歩道Ⅱ 新宿駅偏

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 「歴史の散歩道(街と暮らし社)」を読んだ第2弾で、明治から昭和までの「新宿駅」をまとめてみました。

 明治4年(1871)に江戸時代から続いていた宿駅伝馬制度が廃止され、宿場町「内藤新宿」の役目が終わった。明治18年(1885)赤羽と品川を結ぶ日本鉄道株式会社線(山手線)の前身が開通し、中心地だった「内藤新宿」から西へ数百メートル離れた辺鄙な場所に新宿駅ができた。明治22年(1889)には新宿から立川までの甲武鉄道(中央線の前身)が開業。明治36年(1903)には新宿追分~四谷間に路面電車が開通した。

 しかし鉄道の開通で一気に人が集まったわけではない。1日の乗客数が1000人を超えたのは明治26年(1893)。この頃は日本でも牛乳が流行りだし、新宿2丁目には「耕牧社」という牧場があり「牛屋が原」と呼ばれるのどかな場所だった。

 その後乗降客も徐々に増え、牧場だったところが遊郭になり、徐々に発展して行く。それでも歌舞伎町の辺りは長崎大村藩主別邸があり、鬱蒼たる森が残っていた。大正12年の関東大震災で、山の手地域では新宿だけが焼け野原となる。その後の震災復興計画の中で新宿は大きく発展する。

 昭和2年(1927)には小田急線、西武線、京王線が相次いで開業。元々京王線は大正2年(1913)に笹塚~調布間で開業し、大正4年(1915)に笹塚~新宿間も開業した。私鉄各線の続けざまの開業で、新宿駅は一大ターミナル駅となる。新宿駅周辺にはデパート、映画館、芝居小屋が多数できた。映画館の武蔵野館が新宿通りの旧三越新宿店(現ビックロ)にでき、その後昭和3年に現在の新宿駅東口に移転。軽演劇のムーランルージュ(正式名称は新宿座)は昭和6年(1931)に開業。都会感覚の洒落たコメディを上演し、学生やインテリに人気を博した。

 しかし太平洋戦争により新宿は再び焼け野原になる。昭和20年(1945)に角筈1丁目北町の町内会はこの地を娯楽地として復興する願いを込めて、新町名を「歌舞伎町」とした。中心地に歌舞伎を上演できる劇場を建設予定だったので、歌舞伎町の町名を付ける。しかし歌舞伎場建設計画は流れてしまい、結果的に町名だけが残った。

昭和25年(1950)に「東京産業文化平和博覧会」を歌舞伎町で3か月開催し多くのお客を集めた。その後歌舞伎町は歌声喫茶やストリップ劇場の帝都座などもでき、一大娯楽センターとして大いに発展する。

 新宿駅西口は昭和41年(1966)に西口広場が完成。新宿駅の乗降客数は95万人となり、日本一のマンモス駅となった。昭和46年(1971)に高さ170m、47階建、1500室の京王プラザホテル、昭和49年(1974)に高さ200mの新宿住友ビル、高さ210mの新宿三井ビル、昭和53年(1978)に高さ203mの新宿野村ビル、昭和54年(1979)に高さ216mの新宿センタービルと超高層ビルが次々と完成した。

 ホテルも京王プラザビルに続いて、センチュリーハイアット(現・ハイアット リージェンシー 東京 28階、744室)、ヒルトン東京(38階、806室)、新宿ワシントンホテル(25階、1296室)、同新館(337室)とできた。また平成27年4月に歌舞伎町コマ劇場の再開発で、新宿グレイスリーホテル(30階、980室)が開業し、東京で一番多いホテル客室数を誇っている。

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