2015年10月24日(土)

遊女の一生

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 BS・TBSの10月19日放送の「にっぽん歴史鑑定」で吉原遊郭の話しが放送されました。ナビゲーターは俳優の田辺誠一氏。参考になる情報が多数ありまとめてみました。

・源義経が愛した静御前(しずかごぜん)。彼女は都で評判の白拍子(しらびょうし)だった。白拍子とは神事に合わせて舞をする女性。別名、遊女(あそびめ)とも言った。「遊」は芸能を現した。彼女たちの舞いは神々しく、やがて彼女たちの体を求める者も出てきた。彼女たちの中で体を売ることを生業にする者も現れた。

・戦国時代になると合戦に同行する御陣女郎(ごじんじょろう)が現れた。戦いで神経をすり減らす兵士の心を慰めるために性を提供し収入を得た。

・豊臣秀吉の時代になり、大阪の治安を良くするため様々な場所にいた遊女を道頓堀に集めた(大阪市中央区宗右衛門町辺り、今も歓楽街)。これが日本で最初の遊郭街。

・徳川家康の時代になり江戸に幕府が開かれると、埋立、堀の整備、街割り、建物建築と江戸の大普請が行われ、全国から大勢の建設労働者が集まってきた。また参勤交代が行われるようになると、諸国の武士たちが江戸に住むようになった。こうして江戸は男が多数集まる都市となった。

・男が多数集まればその性のはけ口として女性が性を売るようになる。様々なところで売春が行われ、江戸の治安が悪化してきた。これを避けるために遊女を一カ所に集めて管理する「集娼(しゅうしょう)」政策が取られるようになった。最初にできた集娼場所が今の日本橋人形町だった。葦が生い茂る湿地帯で葦原(あしわら)と呼ばれ、悪しに繋がる縁起の悪い名前だからということで、「吉原」に名前を変えた。

・1652年(明暦2年、ちなみに明暦の大火は翌年の明暦3年)に浅草寺北側の日本堤に幕府が吉原を移転することを決めた。通称「浅草田んぼ」と呼ばれる寂しい場所だった。新吉原への出入りは五十間道と呼ばれる入口一カ所だけだった。周囲は堀で仕切られ塀で囲われた。これは幕府がいざ合戦となった場合には、東北からの侵入を防ぐ前戦の出城としての機能を持たせるためだったと言われている。

・吉原は華やかに着飾った遊女が多数いる江戸の町とは別世界のテーマパークだった。高さ25cmの高下駄で外八文字で歩く花魁道中(おいらんどうちゅう)など多数の演出があった。遊女を囲う店も、高級店の大見世(おおみせ)、中級店の中見世(なかみせ)、低価格店の小見世(こみせ)とランク付けされていた。各見世とも遊女が座っている座敷を通りから見ることができたが(ショーウィンドー)、客からは大見世、中見世、小見世と直ぐに判別できる仕組みがあった。籬(まがき)と呼ばれる牢屋と同じような格子状の柱で仕切られているが、大見世は天井から床まで全体が仕切られ(総籬)、中見世は総籬の1/4くらいが開いていて、小見世は総籬の1/2くらいが開いている。高級店ほど遊女が見えにくくなっており、プレミアム感を出していた。

・吉原では服装にも決まりがあり、また武士といえども刀は店に預けなければならなかった。客も一見ですぐに遊女と遊べるわけではなく、第1回目の「初回」は遊女とお酒を呑むだけ。それも遊女は上座に座り客としてもてなされた。2回目は「裏」と言い、初回と同じ女性を指名しなければならなかった。どうしても遊女を変えたい場合は手切れ金を支払う必要があった。3回目が「馴染み」。そして遊女に気に入られれば初めて遊女が客の名前を呼んでくれ、そして念願の「床入り」。慌てずゆっくりと意気に過ごす。こうしたマナーを守れるお客が「上客」として歓迎された。

・吉原の遊女たちは口減らしで売られた貧しい農村の女性が大半。10歳くらいの女の子を女衒(ぜげん)と呼ばれる商売人が集めてきた。5両から10両で女の子を買ってきた。農民だけでなく武士の娘も売られることが多く、10年の年季奉公に出すと言う名目で売られた。武士の娘は教養を身に付けていたので、教養が求められる吉原では好まれた。

・女の子が吉原に入ると最初は「禿(かむろ)」と呼ばれ、先輩方の雑用係をしながら吉原の基本を学んでいった。やがて15歳くらいになると「新造(しんぞう)」となり接客法を学ぶ。先輩に認められると、17、18歳で遊女デビューをした。彼女たちが目指したものはごく一部の遊女だけがなれる最高位の「花魁(おいらん)」。

・遊女にははっきりした格付けがあり、江戸時代初頭は下が「端(はし)」、真ん中が「格子(こうし)」、上位が「太夫(たゆう)」と分かれていた。これが1750年の宝暦の時代になると、下から「切見世(きりみせ)」、「局(つぼね)」、「散茶(さんちゃ)」、「格子(こうし)」、「太夫(たゆう)」と細かく階級分けされた。

・一番格下の切見世は長屋で暮らし、1回10分くらいの相手で料金は100文(約2000円)。最上級の太夫(時代によっては花魁と呼ばれる)は高根の花の存在。享保時代の記録によると3800人いた遊女の中で花魁は僅か4人だけだった。花魁が相手にするのは幕府の高官や金持ちの大店の旦那衆。時折、幕府に呼ばれ大名の相手もした。偉い人達の相手をするので、絵や書、歌などの高い教養が求められた。常に自分を磨く努力は怠らなかった。臭いの元となる生魚、臭い野菜は食べないようにし、香料の入った風呂に長いこと浸かることで良い香りを重視した。

・花魁の揚げ代は1両2分(約15万円)。揚げ代は見世の収入。花魁の収入は「床代(とこだい)」と呼ばれる客からのチップで成り立った。一般的には揚げ代の4倍が相場。この一部も店に入れたので、花魁の実収入は1回で4両(約40万円)だった。花魁は馴染みの客を大切にし、多数の客を取ることはしなかった。馴染み客が月の半分来てくれるとすれば、それだけで月収600万円、年収7200万円となった。

・しかし支出も大きかった。豪華な着物や簪(かんざし)、部屋の調度品は自己負担。身の回りの世話をしてくれる禿、新造の面倒も見なければならなかった。菊の節句などのイベント日にお客を呼ぶような時も費用は自己負担。支出の方が多く、結局借金が残ってしまうことも多かった。

・下のクラスの遊女たちも生活は苦しく、少しでも多く客を取ろうと営業努力をした。自分の吸っているキセルを男客に吸わせようとしたり、床を一緒にした男性を抱きしめこのままずうっといたいと態度で示す。客に遊女の髪を切らせ、客に持たせる「髪切り」。このような営業努力を「手練手管(てれんてくだ)」と言った。指切りげんまんも、遊女の小指の第一関節を切って客に渡したのが語源。本当に指を切ったのはごく少数で、多くは死体の指を持ってきて客に渡したりした。

・遊女は年季が明けると吉原から出ていかなければならなかった。吉原を出た後は、個人営業の「私娼」となった者も多かった。私娼は様々な名称で呼ばれた。「比丘尼(びくに)」と言うのは尼さんの格好をした遊女。最初は熊野三山の御札を売って生活していたのが、やがて恰好だけ比丘尼で性を売りはじめた。比丘尼宿に集まり、客から声が掛かると相手の家に行って性を売った。値段は100文から200文(2000円から4000円)。一種のコスプレで尼さんの格好で幕府の目を逃れるためでもあった。

・綿積(わたつみ)は布団の綿を積む商売をしながら、取引先番頭から求められれば性を売った。「提重(さげじゅう)」はお客の所へオカモチに入れた荷物を運ぶ格好で、実際は呼ばれた客の自宅へ行って性を売る(デリバリー方式)。

・夜の通りで営業する蕎麦屋屋台の常連が、「夜鷹(よたか)」と呼ばれる私娼だった。夜鷹達が良く食べに来るので夜鷹蕎麦とも呼ばれた。夜鷹の商売はござを持ち歩き、河原などでござを敷いてアウトドアで性を売っていた。手ぬぐいを頭にかぶり、端を口で噛んでいるのが夜鷹のポーズ。この姿が鷹に見えたことが語源と言われている。夜鷹の料金は24文(約500円)。そばの料金は16文であったので、それだけ夜鷹の料金は安かった。夜鷹の中には藩の取り潰しで食えなくなった武士の奥さんもいた。

・船饅頭と呼ばれる最下層の遊女もいた。自分の船で饅頭を売ると言う名目で、船の上で性を売った。ぼちゃぼちゃ、河童などとも言われていた。

・遊女であったが良い男性と巡り合い幸せになった女性も大勢いた。経済的に困って遊女になったことを皆が知っていたので、遊女を妻に娶ることはそれほど抵抗がなかった。

・幕末の横浜には開国後に商売でやってきた外国人が大勢いた。この相手をさせるために、ある程度の教養がある遊女が選ばれた。今の横浜球場付近に港崎遊郭(みよざきゆうかく)が1859年に開業した。日本人向け遊女と、外国人向け遊女とに分けていた。攘夷論もあり外国人の相手をするのは遊女でも皆嫌がった。どうしても外国人の接待をしなければならなかった人気のあった遊女が自ら命を絶った事件もあった。

 遊女、吉原に関する多くの情報が得られた好番組でした。馴染み、手練手管等の多くの語源が吉原に由来していたのか。また従軍慰安婦の仕組みが、既に戦国時代に御陣女郎として生まれていたというのも初耳でした。

大阪の宗右衛門町も次回は遊女たちの歴史を踏まえながら歩くこともできます。

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