2017年1月6日(金)

寺はホテル、寺は出城

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

「京都嫌い」と言う本を読んだ折、織田信長は何故京都の本能寺で殺されたのかと言う内容が書いてありました。何故、信長は本能寺に泊まっていたのか?

それは、“本能寺が信長の定宿だったから”という答えでした。大勢の家臣と一緒に泊まり、それなりに防御もしっかりした施設。それを室町時代に探せば、「寺が一番」ということになります。信長は本能寺が定宿でしたが、その他の大名もきっと「定宿=寺」が決まっていたのでしょう。

逆に言えば、時の有力武将(権力者)と結びつくことで、寺も勢力を拡大できます。武士の庇護を受けることで寺を護り、かつ勢力を拡大していく。そのためには、有力武将に京都在住のホテルとして提供する。

禅宗が鎌倉時代以降勢力を伸ばしたのも、武士と結びついていたからとも良く聞きます。京都には臨済宗の立派なお寺がいくつもあります。東福寺、妙心寺、大徳寺、建仁寺、竜安寺等。これら寺院には必ず立派な日本庭園、枯山水等が見られますが、これらの庭も戦国武将の心を慰めるためのおもてなし施設であったとも考えられます。

信長が生きていた頃はまだ石山本願寺があった時代です。石山本願寺は寺を中心とした街であり、大勢の人が寺町内に暮らしていました。秀吉が天下を取った後に秀吉に石山本願寺を譲り渡し、秀吉はここに大阪城を建設します。

一方、寺は戦になった時の出城の役割も果たします。黒田藩は北側の海沿いに寺町を配置し、海からの急襲に備える街づくりをしました。熊本(肥後)の加藤清正も城内の防御の要所に寺を配置しています。

寺はホテルであり、寺は出城であった時代。寺は宗教施設とは離れた使われ方、位置づけがあったのだと改めて再確認した次第です。

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