2010年10月18日(月)

江戸市街地の半分以上が燃えた「明暦の大火」

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 江戸の町は、燃えやすい木造家屋が密集する町だったため、何度も火事による大災害がありました。その中でも最大の大火だったのが、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」です。

 俗には振袖火事と言われ、同じ振袖を着た娘が相次いで病死してしまったため振袖の供養を本郷の本妙寺で行ったところ、突然吹いた突風で火が付いた振袖が舞い上がり、大火事の原因になったと伝えられています。注1)

 実際には、火元が1箇所ではなく、本郷、小石川、麹町の3箇所から三日間連日して発生したものです。現在の3月上旬頃の火事であり、西高東低の気圧配置で北西からのからっ風が強い時期。次から次と火災が発生し、結果的に江戸市街の6割が灰になってしまったそうです(ものすごい広範囲!)。江戸城にも火が燃え広がり、天守閣も燃えてしまいました。明暦の大火による死者の数は3万人とも10万人とも言われています。火事の後の飢えや寒さでも相当数の死者が出たと言われているので、正確な数は分からないようです。

 火災後に今の両国にあたる牛島に、多数の死者が運ばれ、大きな穴を掘って埋葬されました。これが「万人塚」と呼ばれるものです。これら死者を供養するために建立されたのが、諸宗山無縁寺の回向院です。

 明暦の大火後に、どうしたらこのような大災害が今後起きないようにどうしたら良いか、復興計画が練られました。

・  江戸城の天守閣は再建しない。政治の中心は本丸御殿に移っているので、見栄えばかりで象徴的な天守閣はお金も掛かるので作るのを止めた。これ以降江戸城天守閣が再建されることはなかった。

・  江戸城の城内にあった御三家は城外に移転させた。尾張、紀伊は麹町に、水戸は小石川に上屋敷を移転させた。御三家以外の上屋敷も江戸城の城外に移転させた。

・  そこで生まれた跡地は明地として何も建てず、火が燃え広がらない防火帯とした(今の北の丸公園から竹橋のあたり)。

・  また、城内に200くらいあった寺院も、郊外(旧江戸市内の外側の周辺部)に移転した。

・  武家屋敷、寺院の移転で生み出された明地は、火除け地、広小路を設け、火災が発生しても最小限で被害を留める都市構造に作り直した(上野の広小路は、寛永寺への参道ということもあったでしょうが、主たる役割は火除け・防火だったということです)。

 こうして、今まで周辺部の農村であった場所に、武家屋敷、寺院、町人町など一斉に移転したので、江戸の町は一気に外に拡大しました。

 吉祥寺は本郷本町、現在の水道橋駅の北側あたりにありましたが、明暦の大火、翌年に起きた本郷の大火で延焼し、現在の文京区本駒込に移転しました。水道橋の吉祥寺門前に住んでいた浪人、町人は遠く離れた牟礼野に移住させられ、吉祥寺村を起こします。これが現在の武蔵野市吉祥寺の歴史で、お寺は本駒込に移って、人だけ現在の吉祥寺に移ったということです。浅草には浅草寺のほかにも多数のお寺がありますが、これも明暦の大火後、浅草河童村に集団で移転していきました。

 大火災は悲劇ですが、その後の復興計画が優れていれば、より住みやすい町に変えられるということです。

注1)本妙寺は現在も巣鴨に残っています。本妙寺のHPでは、火元は自分達の寺ではなく、隣の阿部忠秋家(当時の老中)だったと記されています。老中の家から火が出て、江戸の町が燃えてしまったのは如何にも拙い。阿部家の責任を本妙寺が引き受けたのが真相だと書いてあります。http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/

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