2011年4月26日(火)

富山県高岡市、前田利長公と蔵の街並み

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 今年の3月下旬に富山県高岡市に仕事で行ってきました。終日高岡にいたので、今までにない発見をすることができました。

 高岡駅周辺は、商店街、店舗は数多くあるのですが、生気のないシャッター商店街となっています。以前高岡出身の人に聞いた話では、30年くらい前までは高岡駅周辺は大層賑わっていたとのこと。週末になれば、高岡市内だけではなく、周辺の氷見や砺波から来る買い物客が、大勢集まってきたそうです。それが車社会になるに連れて、周辺都市の買い物客は、金沢や郊外型SCに行くようになってしまい、高岡駅の衰退が始まったそうです。典型的な地方都市の衰退の道を辿っています。
 でも昔栄えた町は、過去の遺産で素晴らしいものが多数残っています。歴史方々、いくつか紹介してみます。

 私の中では加賀百万石前田家と言えば、石川県というイメージしかありませんでした。しかし前田家は、加賀、能登、越中(現在の富山県)の三藩を支配する大藩で、富山県全部が前田家の領地だったのです。富山市は1639年に前田家の分家10万石が作られ、富山前田氏として明治を迎えましたが、高岡市は前田家領地のまま続きました。

 前田家初代が利家で、その奥さんがまつ。この利家とまつの子が2代目の前田利長公で、高岡の町ではこの利長が圧倒的に有名な存在です。それは高岡の礎を作ったのが、利長だったからです。

 豊臣秀吉が1598年に死去し、関ヶ原の合戦が起きる前に五大老筆頭格の前田利家が死去。豊臣家を除くと最大勢力になっていた前田家を取り潰そうと、徳川家は利家死去後すぐに動きます。この窮地を救ったのが利長で、実母のまつを徳川家に人質として差し出し、徳川と和解をしました。その後関ヶ原では東軍・徳川方として戦い、その功績で加賀120万石まで加領されました。

 利長は、48歳で異母弟の利常(利家の四男)に家督を譲り、晩年を過ごす城(隠居城)として1609年に高岡城を建てました(現在の高岡古城公園)。ちなみにこの城の設計(縄張り)をしたのが、高岡右近です。キリシタン大名として国を捨てていた右近を前田家が庇護しており、城造りの名人右近に依頼したのでした。その後1614年に利家が死去したため、高岡城が隠居城として使われたのは5年間だけでした。当時既に一藩一城政策となっていたため、その後高岡城が城として使われることはありませんでした。

 利長が高岡に入城すると同時に、城下の整備も行います。各地から商人や、職人を高岡に集めました。利長死去後は、城下町として栄える予定が、廃城となり寂れかけていた高岡を、3代目利常が商業都市として強力に復興、整備します。町人が他所に行くことを禁止し、魚問屋、塩問屋、米蔵、塩蔵など高岡に集中させました。これが高岡の町の発展に繋がり、金沢に次ぐ加賀藩第二の都市として栄えるようになったのです。高岡市民は、利長が産みの親、利常が育ての親と思っています。
 利常は自分を引き立ててくれた利長を生涯敬い、利長亡き後に弔うため瑞龍寺(国宝)を建立しました。瑞龍寺は前田家の威信を掛けた美しく壮大な曹洞宗の大寺で、必見の価値があります。

 現在の高岡では、下記の観光地が有名です。
①瑞龍寺
 高岡の開祖前田利長公の菩提寺であり曹洞宗の名刹(めいさつ)です。3代藩主前田利常公の建立で、壮大な伽藍配置様式の豪壮にして典雅な美しさに圧倒されます。山門、仏殿、法堂が県内で初めて国宝の指定を受けました。 *高岡市観光協会HP
http://www.zuiryuji.jp/

②高岡大仏
 奈良、鎌倉につぐ日本三大仏に数えられています(全国区ではなく、地元での主張)。銅器鋳造技術で名高い高岡の伝統技術により、1907年から1932年まで25年の歳月をかけて作られました。全体の高さ15.85m、重量65tという巨大な大仏様です(ちなみに鎌倉大仏は、高さ13.35m、重量121t)。

③高岡古城公園
 大阪夏の陣の後に廃城となり、お城として使われた期間は短かったのですが、お城全体がそのまま公園として残っています。美しい水濠や土塁は残されて、約21万㎡の広大な自然豊かな城跡公園となっています。公園の中には、射水(いみず)神社があります。お濠に市の観光協会で出している遊覧船がありますが、その名前は高岡の町を作った恩人二人の名前を付け、「利家号」、「利常号」と名付けられています。

http://takaoka.zening.info/old_castle/

④雨晴海岸(あまはらしかいがん)
 高岡市北部の富山湾に面する海岸ですが、海の向こう側に見える立山連峰に圧倒されます。立山連峰は3000m級の巨大な壁ですが、それを富山湾越しに見られるのが雨晴海岸です。特に4月上旬までは、雪を被った立山連峰が真っ白な壁としてそびえています。

 今後、有力な観光資源になり得るのが、街道筋の中心地だった山町筋、金屋町の街並みです。山町筋は、利長公が高岡を発展させるために、近隣の有力商人を招いて住まわせたところです。商家の土蔵的蔵造りの街並みが約600m続いており、伝統的建造物群保存地区となっています。旧高岡共立銀行本店(現・富山銀行高岡支店)は赤レンガの瀟洒でモダンな建物で、現役の銀行店舗として頑張っています。菅野家住宅、旧室崎家住宅(現・土蔵造りのまち資料館)の建物も、明治時代の豪商の家を楽しめます。

     このような本物の土蔵造りの建物が並んでいます。

    資料館に飾られていた神輿に載せる飾り。数千万円という高価な品物。

 

    現役の銀行店舗の旧高岡共立銀行本店(現・富山銀行高岡支店)。

 金屋町は高岡の鋳物発祥の地となっています。高岡の発展のために、利長は1611年鋳物師7人を招き拝領地を与え、5か所の吹き所(鋳物鋳造所)を建てさせ、諸益を免除しました。これが現在の高岡鋳物技術に繋がっています。高岡の鋳物鋳造技術は高く、全国のお寺の釣鐘の大半は、高岡で作られているそうです。金屋町に行くと、千本格子の家並みと、銅片の敷き込まれた石畳が、美しいたたずまいを見せています。

 山町筋にしても金屋町にしても、歴史と伝統がある有力な観光資源です。もう少し街並みを整備して、観光客が楽しめるお店、土産物店を集積させれば、滋賀県長浜、埼玉県川越のように、多くの観光客を呼び寄せることができるでしょう。2014年の北陸新幹線「新高岡」駅開業まで、残された時間は僅かです。

追記1)高岡の命名の由来は、中国の詩経にある「鳳凰鳴けり、かの高き岡に」から付けられたそうです。

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