2011年5月1日(日)

渋谷区松濤は茶畑だった

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 都内屈指の高級住宅地と言われる渋谷区松濤。都心部にありながら、低層戸建住宅の環境を守るため、第1種低層住居専用地域に指定され、敷地200坪、400坪クラスの高級住宅が建ち並んでいます。平成23年度地価公示では、(渋谷-5)松涛1-13-7は1,440千円/㎡(476万円/坪)。バブル時代には、約2300万円/坪くらいまで公示価格が上昇しました。
 松濤は鍋島家(旧佐賀藩主)の敷地だったと若い時に教わり、それをずっと信じていたのですが、最近ちょっと違うことを知りました。

・江戸時代は徳川御三家の一つ、紀州徳川家(紀州藩)の下屋敷だった。ちなみに紀州藩の上屋敷は、千代田区の赤坂プリンスホテル、清水谷公園の辺り。すぐ近くにあった徳川尾張家上屋敷(現上智大学)、譜代大名筆頭だった井伊家(彦根藩)中屋敷があり、これら三家の頭の文字を取って、現在の紀尾井町の名前が付けられている。

・紀州藩の下屋敷のまま明治を迎える。武家屋敷は一旦明治天皇の土地となり、その後明治9年に佐賀藩鍋島家に払い下げされた。

・この土地の有効利用として鍋島家が考えたのがお茶畑。武士と言う職業が無くなって、失業状態だった藩士を助ける意味もあった。狭山から茶の木を移植して茶畑を作り、「松濤園」と名付けた。これが松濤の地名の由来となる。
 しかし東海道線が開通し、静岡茶やその他有名どころの茶葉が東京に入ってくると松濤茶は売れなくなり、明治37年に果樹園に変えた。それも上手くいかず、大正5年頃に住宅として区画整理し、鍋島家自らが宅地開発を行った。ただ最初は売却と言うよりも、借地として供給していた(借地代坪あたり14銭程度)。

・当時の鍋島家当主の直大(なおひろ)氏は若いころ英国に留学し、欧米風の都市計画にも明るかった。十分に広い道路を配置し、約200坪平均で宅地を区画。借地できる人を信用のおける人に限ったため、高級将校、大企業の重役など社会的地位の高い人々が集まった。

・侯爵となっていた鍋島家の邸宅は、戦後公園として整備され、現在の鍋島松濤公園となっている。

 鉄道が渋谷駅を通ったのが、日本鉄道の品川~赤羽間開業と同時の1885年(明治18年)。その当時は、人もあまり住んでおらず鉄道を敷きやすかったので、現在の山手線ルートが選ばれたそうです。今でこそ高級住宅地の代名詞の松濤も、明治時代までは農地が最有効使用だったということです。

追記1)昭和10年の地籍台帳によると、鍋島家の所有する土地は、栄通1丁目、同2丁目、松濤町、大山町、神山町、大向通、北谷町、宇田川町の8町に渡っていて、合計約82,600坪だったそうです。

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

最新記事

不動産業界コラム

過去の記事

ページの先頭に戻る↑