2011年6月16日(木)

何故、西本願寺と東本願寺に分かれているのか?

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 浄土真宗の本山「本願寺」は、何故、西本願寺と東本願寺に分かれているのか?何故、築地本願寺はイスラム寺院のような建物なのか?これらについて五木寛之氏の「百寺巡礼」の第三巻京都編、第五巻関東・信州編を読んで大分知識が得られました。

 本願寺が西本願寺と東本願寺に分かれたのは、戦国時代からの動乱。そして信長、秀吉、家康と権力が移行して行くに連れ、本願寺も翻弄されながら巧みに生き残って行った歴史があったからです。

 本願寺は、法然(浄土宗の開祖)の弟子だった親鸞が興した浄土真宗の本山です。本願寺八世の蓮如の時に北陸、京都山科、大阪で勢力を伸ばし、本願寺十世の証如の時に大阪に石山本願寺を1533年に建立します。現在の大阪城の場所で、お寺と信者(門徒)が共存して住む広大な寺内地となっていました(大阪城公園が105haですので、それ以上の規模だったのでしょう)。
 当時は室町時代後期(戦国時代)で、石山本願寺も戦国大名と戦争を繰り広げていました。最初は蓮如が建てたお寺(御坊)だったのが、お寺を守るために土塁、城壁が築かれ徐々に要塞化して行きます。石山本願寺に僧兵を抱えて一大勢力となり、当時勢力を拡大中だった織田信長とも衝突し始めます。信長との戦いは11年に及び、石山本願寺内部でも信長と和平を結ぶか、徹底的に戦うかで主張が分れました。
 1580年に信長が朝廷に仲介を依頼して、これに本願寺十一世顕如ら主流派が和平を結び石山本願寺を明け渡します。この時に退去を拒んだのが、顕如の長男教如でした。最後には教如ら明渡し反対派は、石山本願寺を焼き払って紀州に堕ちのびます。

 信長亡き後の天下を取った秀吉は、石山本願寺の場所に大阪城の築城を始めました(1583年)。その後秀吉が京都市内を整備するのに、本拠地を転々としていた顕如に京都に本願寺を再建することを命じ広大な敷地を与えます(1591年)。これが現在の西本願寺の場所です。
 顕如が死去すると、長男の教如が戻って来て門主職につきました。ただ彼は石山本願寺の引渡に最後まで反対し争った人間なので、トップには相応しくないとされ、弟の准如が第十二世を継ぐことになりました。
 その後徳川の時代になって、家康は隠居していた教如に寺地を寄進し、もう一つの本願寺を京都に作らせました。これが現在の東本願寺です。強大になり過ぎた浄土真宗本願寺の勢力を二分したい意図があったと言われています。
 こうして秀吉に庇護された本流の西本願寺と、家康に庇護された東本願寺が生まれたのです。正式名称は、西本願寺が浄土真宗本願寺派、東本願寺が真宗大谷派となっています。

 時代は益々徳川の時代になり、秀吉色の強い西本願寺は何とか徳川家とも上手くやって行きたいと考えます。トップの准如自ら江戸に出向き、家康に江戸に西本願寺のお寺を建立させて欲しいとお願いします。その許可が出たのは、家康死去後の1617年。浅草の外れに本願寺が建てられました。折角建てた浅草御堂ですが、その後江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」で浅草の本願寺は焼失してしまいます。
 お寺のあった場所は、明暦の大火後の復興計画で火除け地や広小路用に土地を収用されてしまいました。その代わりにもらった代替え地は、何と海の上でした。八丁堀そばの浅瀬の海を自分で埋め立てて、お寺を作れと言う無茶な命令だったのです。広さは100間四方、180m×180mの約1万坪。
 門徒達が協力し合って埋め立てを行い、今の築地の場所に本願寺ができたのが1679年。明暦の大火で寺が焼失してから20年強の年月が経っていました。埋め立てで大活躍したのが、佃島に住んでいた漁師達です。彼らは元々大阪の漁師で浄土真宗の門徒でした。彼らのような末端の民に、極楽浄土に行ける希望を与えていたのが浄土真宗だったのです。家康が江戸に入城後、江戸の食糧事情を良くするためにその漁の腕を見込まれ、家康から江戸に移らされたのでした。

 この築地本願寺が次の災難を迎えたのが1923年、そう関東大震災です。地震では壊れなかったのが、その後の火事で焼失してしまいます。その時の築地本願寺の再建を託されたのが、西本願寺二十二世の大谷光瑞氏です。大谷探検隊のリーダーとして、中国の奥地、中央アジア、イスラム圏を探検し、貴重な文化財を収集したことで有名な人物です。
 大谷氏が選んだ設計士が、東京帝国大学出身のエリートながら、世界中の建築物を見て回った伊東忠太氏です。彼の設計プランは、全体がバロック調の石造りで、中央の丸いドームにトルコブルーの屋根。どう見てもイスラムの寺院で、日本の伝統的なお寺とはあまりにかけ離れていました。当然関係者からは猛烈な反対意見が出ましたが、大谷光瑞氏のリーダーシップでこのデザインで再建を果たします。
 伊東忠太氏は築地本願寺の他にも、平安神宮、明治神宮、湯島聖堂、靖国神社、震災記念堂など、今でもランドマークになっている著名伝統的建造物の設計を多数行っています。でも彼の最大のチャレンジングな設計は、何と言っても築地本願寺だったのでしょう。

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