2011年9月12日(月)

江戸の刑場と牢屋

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 東京で悪いことをした人間が収監される場所と言ってすぐに思い浮かぶのは、足立区小菅の東京拘置所です。10年前くらいに建て替えて、収容人数3000人の近代的施設になりました。鈴木宗男衆議院議員が収容された時も、オウム真理教の麻原彰晃が収容された時も、数機のヘリコプターが上空を旋回し大賑わいでした。

 一方、刑務所だと府中刑務所ですが、ここも3000人以上収容しています。でも府中刑務所に収監されるというのは、あまり騒がれません。拘置所と刑務所はどう違うか?

 拘置所は、刑が確定していない被疑者・刑事被告人が拘置される施設で、刑務所は刑が確定した刑事犯が服役する施設です。ただ刑務所にはいきなり送られず、刑が確定した後に拘置所に一度入所してから、刑務所に送られるようです。証券取引法違反で懲役2年6か月の懲役が最高裁判決で確定したライブドア元社長堀江孝文氏(通称ホリエモン)は、まずは東京拘置所に送られました。

 府中刑務所は1935年(昭和10年)開設ですが、それまでは現在サンシャイン60が建っている場所、巣鴨刑務所が東京の刑務所でした。巣鴨刑務所は、1895年(明治28年)に開設されます。刑務所機能を府中に移管した後は、拘置所となっていましたが、戦後はGHQに接収され(巣鴨プリズンと呼ばれる)、A級戦犯などが収容されたのは有名な話です。

 それでは江戸時代の牢屋はどこにあったか?牢屋はいくつかありましたが、最大の施設は小伝馬町の牢獄です(伝馬町牢屋敷)。木造平屋の建物で、常時300人前後が収容されていたそうです。伝馬町牢屋敷は、拘置所であり、かつ処刑場であったそうです。奉行所による裁きで、懲役、遠島と下されると、その受刑地に送られます。もし死刑の裁きが出ると、すぐに伝馬町牢屋敷の中で刀で首が撥ねられました。

 牢屋敷での処刑の他に、公開の処刑場(御仕置場)が数カ所ありました。代表的なのは、鈴ヶ森(品川区南大井2丁目)、小塚原(荒川区南千住5丁目、JR南千住駅そば)、板橋(JR板橋駅北方付近)です。いずれも東海道、日光街道、中山道の一つ目の宿場町そばにあります。衆人環視のもとで首を撥ね、その後さらし首ということも行われました。

 小塚原刑場そばには南千住回向院があり、安政の大獄で処刑された橋本佐内のお墓があります。蘭学者の杉田玄白、前野良沢らが西洋の人体解剖図を確認するために、処刑者の解剖を行い、解剖図が正確であったことに感心したのも小塚原刑場でした。

 明治維新後1875年(明治8年)に市ヶ谷囚獄ができて伝馬町牢屋敷は廃止され、跡地は十思公園・村雲別院・大安楽寺などになりました。市ヶ谷囚獄のあった場所は、都営新宿線「曙町」駅の西方で、新宿区富久町、市谷台町、余丁町、住吉町一帯の約18万8千坪の敷地です。余丁町児童遊園の一角に日本弁護士会が建てた「東京監獄 市谷刑務所 刑死者慰霊塔」の石碑があります。

追記1)中野区の西武新宿線沼袋駅を南方徒歩10分に、中野刑務所がありました。高校時代沼袋に友人がいたので、時折前を通ったことがあり、その時は現役の刑務所でした。昨年、沼袋案件の不動産鑑定で付近を通った時に閉鎖されたことを知りました(昭和58年3月に閉所)。

追記2)東京メトロ有楽町線氷川台駅の北東方徒歩約10分に、東京少年鑑別所があります。練馬にある鑑別所なので、我々が中学、高校のころは「練鑑(ねりかん)」と呼んでいました。どんなところか皆目分からなかったのですが、どえらい悪いことをすると練鑑に入れられると教育されていたせいで、普通に有名でした。

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