2011年12月6日(火)

松山城、山頂にある連立型天守と屏風の石垣

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 坂東三津五郎が案内する城番組「日本の城ミステリー紀行」、BS朝日で1年前くらい放送されていました。数々紹介される各地のお城。その中でも印象に残っているのは、姫路城、熊本城、それと松山城でした。

 松山城放送時の番組タイトルは「迷宮の砦・松山城」で、山の上にある天守閣まで行くのにいくつもの仕掛けがあると説明していました。本道と思っていると行き止まりの崖になったり、屏風のように折り曲がった城壁は色々な時方向から鉄砲で攻撃ができ、難攻不落の作りと紹介されていました。

http://www.bs-asahi.co.jp/shiro/prg008.html

 江戸時代に作られたお城の内、現在も天守閣が残っているのは僅か12カ所です。その12天守の内、圧倒的に大きいのは白鷺城こと姫路城ですが、標高161mの勝山山頂にそびえる連立型天守の松山城も負けず劣らずの立派な規模です。勝山の頂にそびえるお城は市内のどこからも良く見え、松山市民の心の原風景となっています。

    松山城と夕陽(地元の大塚さんから送って頂いた写真)

 私が松山城に行った11月上旬、ケーブルカーを降りたところで松山城を案内してくれる地元ボランティアの方々がいました。あいにくの雨でお客さんも少なく、ガイドを申し込む方もいません。ずうずうしく案内をお願いすると、マンツーマンで案内してもらえることになりました。案内して頂いたボランティアガイドさんは、40歳代の大塚さん。東京の大手電機メーカー勤務を経て、事業を営んでいるご実家に戻られたとのこと。地元のために少しでも貢献しようと、松山城のことを勉強し、週末はご夫婦でボランティアガイドを買って出ているのだそうです。その大塚さんに隈なく松山城を2時間くらいご案内頂き、下記内容を詳細に教えて頂きました。

 松山城は、加藤嘉明(かとうよしあき:秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人として有名)が1602年に城造りに着手し、25年掛けて1627年に完成しました。城主の加藤嘉明は完成目前に東北の会津に転封(国替え)となり、完成した松山城を見ることなく亡くなったそうです。縄張り(城造りの設計)の特徴は

・小高い勝山の山頂を平らに馴らした「平山城」。現在は下からケーブルカーかリフトで中腹まで上がることができます。

・天守閣は連立式天守。大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で繋ぎ、どこからでも攻撃できる鉄壁な守り。

・石垣を真っ直ぐにしないで、屏風(びょうぶ)のように折り曲げながら波型にしている。守る側の城側からの攻撃が複数方向になり、下から攻める攻撃側は色々な角度から標的にされやすくなってしまう。

・三の丸、二の丸と進んでいくたびに、石垣で囲まれたポケットパークが配置。そこに攻撃側の兵が集まると、四方から攻撃を浴びることになる。

・本丸目指して進んでいるつもりが、本道と思っていたのが山の崖に導かれてしまう。ダミーの道を進ませ、本丸まで辿りつけないようになっている。

松山城公式HP http://www.matsuyamajo.jp/

 

    折れ曲がる石垣① 一つの石が周りの6個の石と接触

    折れ曲がる石垣②

    折れ曲がる石垣と松山市内

 加藤家の後に入ってきたのが、蒲生氏でしたが後継ぎができず断絶。その後桑名城主だった松平定行(徳川家康の甥)が入城します。それ以降難攻不落の松山城は一度も戦禍に巻き込まれることもなく、その威力を発揮することもありませんでした。伊予松平家(15万石)は大切に松山城を守って行きましたが、1784年に落雷で天守が消失してしまいます。

 現在の松山城は1820年に再建に着手し、江戸末期の1854年に完成したもので、そのまま明治維新を迎えます。現存は2層2階の天守閣ですが、消失する前の松山城は4層とも5層とも言われています。多くの城が全時代の遺物として取り壊される中、江戸末期の完成と新しく、管理状況も良かったのが今でも生き延びられた理由かも知れません。

 昭和に入り小天守やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失しましたが、昭和41年から全国にも例の少ない総木造による復元が進められました(やはり城は木造の復元でないと!)。

 天守閣以外に現存する二重櫓、石垣が江戸時代の建造物として残っていますが、1997年(平成9年)に、本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元され、素晴らしい城が復活しました。

    連立式天守とゆるキャラ「よしあき君」

    連立式天守

 松山城の美しさの源泉が、折れ曲がった屏風状の石垣です。石垣の石もただ積んでいるのではなく、一つの石を6個の回り石が接触する構造になっています。構造的に言えば、六角形の積み重ね。これを蜂の巣の構造と一緒ということで、「ハニカム構造」というのだそうです。これにより石垣の重みが均等に分散され、安定的な構造になるとのこと。

    下から登ってきた攻撃側はこのエリアに一か所に集められ、上から攻撃される

 石垣は上に行くほど急傾斜になり、登ろうとする侵入者を阻んでいます(武者返し)。石垣の大敵は地震も怖いのですが、大雨による土砂崩れです。そのために密に石垣を組むのではなく、適当に荒く石を組むことで適度に水抜け穴がある造りになっています。先人の知恵は素晴らしい。

 またお城で何が怖いと言って一番怖いのは“火事”です。どんな堅牢な城であろうと、火災には一溜りもありません。そのために火事が起きないように(起きても大丈夫なように?)、城の至る所に“水”を呼び込む象徴(マーク)が付けられています。

           雷のマークで、雨を呼び込む

 石垣の上は江戸時代には塀が張り巡らされていたらしいのですが、現在は一部しか現存していません。残っている塀には、鉄砲で撃つための穴が開いています。この鉄砲穴が“狭間(さま)”です。松山城には塀の他にも、櫓、城内にこれでもかと言うほど狭間が開けられています。

 松山城の建造物21棟は国の重要文化財に指定され、ミシュランの観光地ガイド「ギード・ベール日本編」では二つ星に選定されています。松山城まで行かれた際は大塚さんたちボランティアガイドさんから、勉強になる説明を是非聞いてみて下さい。

追記1)現存12天守は、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城です。

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