2015年5月24日(日)

明治時代の東京の変遷

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 東京遊覧(日本文芸社)という本を読んで、明治以降の東京の変遷をいくつか勉強できました。

①銀座博品館

商品を陳列即売する勧工場(かんこうば)と言う商売が、明治10年から明治30年くらいまで隆盛を誇った。勧工場で一番栄えたのが帝国博品館(伊藤為吉設計)で現在の銀座博品館現在の銀座博品館は玩具が中心だが、明治時代は色々なものを売っていた。

銀座博品館は銀座8丁目の一番南で、高架の首都高速(低層はショッピング街の銀座ナイン)を超えると新橋の地名になる。この首都高速高架が通っているルートは昔は運河で、ここに掛かっていた橋が「新橋」だった。

銀座と同じように栄えていたのがその当時の上野で、新橋の帝国博物館と同系列の「上野博品館」が上野広小路の広小路交差点付近に明治41年に開業した。しかし、大正12年の関東大震災の翌日に上野松坂屋とともに火災で焼失してしまった。

②東京駅(東京停車場)

「大東京に中心駅を」の構想から明治29年に帝国議会で中央停車場の建設が決定。明治38年に仮着工し、明治41年から本格的に工事着手。6年後の大正3年に完成。設計は辰野金吾、葛西万司。施工は大林組を中心に行われた。新橋~横浜に鉄道が開通したのが明治5年なので、東京駅はその後42年経ってようやくできた。

当時甲武線(現在の中央線)の終着駅は、現在の秋葉原駅南方にあった「万世橋駅」。甲武線が、万世橋駅から東京駅に繋がるのが大正8年。その後、大正12年の関東大震災により万世橋駅が壊滅的被害を受けた。終着駅としての機能を東京駅にバトンタッチしていたので、万世橋駅が再建されることはなかった。

③丸の内オフィス街

明治5年に起きた大火事で丸の内界隈(旧大名屋敷街)は焼け野原になってしまった。約10万の土地は陸軍省が所有しており、明治21年に商業地としての利用が決定。入札は不調で明治23年に岩崎弥之助が率いる三菱が払い下げを受けた。明治27年にジョサイアコンドル設計による三菱1号館が竣工。続いて三菱2号館(現在の明治生命館)が翌28年に竣工。その後も続々とオフィスが建設され、明治45年までに20棟の赤レンガ建築が建ち並んだ。その様子から「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた。

大正3年に東京駅が開業してから、赤レンガ建築物から鉄筋コンクリート造の箱型巨大建築物へ移り変わって行った。大正7年に東京海上ビル、大正12年に丸ビル、郵船ビルが完成。東京駅正面は「一丁ニューヨーク」と呼ばれるようになった。

④皇居周辺の海軍省、陸軍省

明治14年に国会議事堂の前庭辺りに国防の参謀本部を建設。明治28年に桜田門前に司法省が竣工(現在の法務省)。明治27年に桜田通りに面して外務省の対面に海軍省ができた。その後、現在の憲政記念館(江戸時代は井伊家彦根藩の上屋敷)に陸軍省ができ、日比谷、霞が関を見下ろせる高台にあった。

⑤紀尾井町

紀伊和歌山藩上屋敷は、日本が朝鮮併合後に朝鮮李王朝の李王邸となる。戦後は国土計画が買い取り、赤坂プリンスホテルとなる。旧赤坂プリンスホテルは解体され再建築中だが、李王邸はそのまま保存されている。

近江彦根藩の中屋敷はホテルニューオータニとなった。尾張徳川家の中屋敷は上智大学となった。それぞれの名前の一文字づつを取って、紀尾井町の町名ができた。

ちなみに外堀の北側にあった尾張徳川家の上屋敷は、現在の防衛省市ヶ谷駐屯地となっている。

⑥神宮外苑

明治19年に日比谷にあった練兵場が神宮外苑に移転し、青山練兵場となった。明治天皇逝去後は威徳を偲ぶ場所として絵画館を始めとした整備事業が計画され、大正15年に完了した。

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