2015年9月23日(水)

高麗(こま)の巾着田の曼珠沙華、高麗神社

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 シルバーウィークの朝のテレビ番組で埼玉県日高市の高麗(こま)の巾着田(きんちゃくだ)が紹介されていました。毎年秋になると一面に咲き乱れる曼珠沙華(まんじゅしゃげ、別名は彼岸花)で有名な所です。「見頃なのはたった5日間くらいしかありません。」と女性リポーターが説明。毎年見に行こうと思いながら一度も行っていない高麗の曼珠沙華の里、見頃なのは僅か5日間なのか。今年こそ見ようと思い、次の日行ってきました。

 大混雑が予想されるので朝8時に西武池袋線で特急「ちちぶ号」に乗り、9時前に高麗駅に到着。既に数多くの観光客が来ています。高麗駅から現地まで徒歩約15分の表示ですが、途中の里道も曼珠沙華や秋の花が咲き、栗、地元野菜などが売られる即売所があったりで飽きさせません。高麗川の浅瀬には7、8人の望遠レンズを持った人たちが、鮎を待ち受けているのか集まっています。街道から高麗川の土手に下りた辺りから曼珠沙華が群生しています。

巾着田の見学は普段入場無料が、曼珠沙華が咲く期間中は300円の有料になります。中に入ると一層鮮やかな曼珠沙華の群生地が広がり、見事に咲き誇っています。赤い綿が浮かぶような幻想的な美しさ。こんな美しい曼珠沙華の群生地は初めてです。 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA巾着田の曼珠沙華①

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巾着田の曼珠沙華②

  巾着田の名称の由来は「日高市内を流れる高麗川は,ほぼ円形に近い形に蛇行。川に囲まれた土地を利用して水田を開き米を作った。秋には黄金色に実った稲穂が波打ち、近くの日和田山(標高305m)からの眺めると、それはあたかも小銭を入れる巾着の形そのものだった。いつしかここを人々は巾着田と呼ぶようになった。」とあります。確かに、この付近の高麗川の形状が「ひ」の字に似ています。 

 曼珠沙華の美しさを堪能し広場に出ると、多くの出店が並んでいます。やっぱり美しいものを見た後は出店での飲み食いが最高です。特に焼き栗のお店は一番行列が出ていました。 

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広場の出店

  巾着田の中を1時間くらい散策した後、徒歩で約40分掛かけてハイキング気分で高麗神社に向かいます。街道沿いは既に大渋滞、のんびり裏道を歩きます。

 この地域が高麗(こま)と言われる謂れは、7世紀に高句麗(こうくり)の王子が来たことに依ります。高句麗は紀元前37年頃に中国東北部(満州)から朝鮮半島北部辺りで起こり、668年に唐・新羅連合軍に滅ぼされました。5世紀中頃には「高麗」と自称し、5世紀後半には現在の中国遼寧省、吉林省一帯及び朝鮮半島南部の一部を除く朝鮮半島までを支配しました。

 高麗神社HPには下記内容が記載されています。

・高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)。日本書紀に666年10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名がある。続日本紀にも703年に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されている。高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことから「若光」と高麗神社の祭神「高麗王若光」は同一人物と思われる。

・若光は716年に武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきた。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。

・若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀った。高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になる。 

 

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高麗神社

  高麗家(若光一族の末裔)が高麗神社の神職を代々務め、その住宅は境内の隣接地にあります。1971年6月に重要文化財に指定されています。建築されたのは、1596~1615年とされており、1976年10月から約1年掛けて、建物の全解体による根本的大修理が行われました。ちょうどこの日は、古代の韓流衣装のファッションショーというイベントが行われていました。

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 高麗家住宅 

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 古代の韓流衣装のファッションショー

  なるほど1300年前に高句麗出身者の人達が開拓した作った村落が高麗(こま)の由来か。そしてそのリーダーが高麗の王子だったのか。高句麗が滅ぶ前に日本に使節として来日し、そのまま帰国することなく日本に住み着いた高麗の人達。もしかすると国が危なかったので、その血を絶やすまいと王子たちを日本に使者として逃がしたのかも知れません。日本に来てから50年後に与えられた地がこの高麗だったのです。

来年の2016年が高麗郡ができて1300年記念と至る所で登りが立っていました。日本という国ができ始めたころ、多くの人が朝鮮半島から渡ってきて日本の礎を築いたことを改めて認識した次第です。 

追記1 倉山満氏の「嘘だらけの日韓近代史」には、高句麗は朝鮮民族が建てた国ではなく、中国のツングース系民族(満州族、女真族)が建国した。高句麗が滅んだ後は、満州や沿岸部の人たちは渤海(ぼっかい)を建国した、と書いてあります。高句麗を韓国の歴史に入れている韓国人が聞いたら面白くないでしょうけど。

追記2 高麗神社近くを高麗川が流れ、河原まで下りていけます。清流の流れを見ながら、鳥の囀りと川のせせらぎを聴くことができます。有名ではないけど、素晴らしい空間でした。 

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 高麗川の風景①

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高麗川の風景②

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