2016年10月13日(木)

松代が生んだ天才 佐久間象山

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 10月8日(日)、長野県長野市松代に行ってきました。丁度その日は「真田10万石祭り」が行われ、真田幸村、真田信之、豊臣秀吉、徳川家康等に扮した大名行列が行われ、松代の街は賑やかでした。

 NHKの真田丸で大泉洋が演じているのが、繁信(幸村)のお兄さんの信之(信幸)。徳川家康の養女(本多忠勝の子供)の小松姫を正妻にもらったことで、関ヶ原で徳川東軍に付き領土が安堵。本拠地だった上田から松代に移封(いほう)されたのが16  年。その後、明治維新まで真田家は外様のまま10万石の石高で存続。と言うのがざっくりした松代藩の歴史です。

 時は幕末になり、1842年に第1回目のペリー来航。その時、老中兼任の海防掛(海上防衛担当)に任じられたのが、真田家第8代藩主の真田幸貫公。この顧問に就任し懐刀になったのが、江戸お玉が池(今の秋葉原界隈)で私塾を開いていた佐久間象山でした。

 佐久間象山は松代藩の下級武士の家に生まれ、その生家があった場所が象山神社になっています。象山神社を参拝し、佐久間象山生家の看板に導かれて細道を行くと、結構広い敷地に辿り着きます。敷地面積877㎡(約265坪)。下級武士と言いながら、結構中堅だった感じです。父親の国善は剣術の先生で、象山も小さい頃から剣術を鍛えていました。

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象山神社

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入口の佐久間象山の銅像

OLYMPUS DIGITAL CAMERA象山の生家跡地 

 象山神社のすぐ近くに、象山記念館があります。小さい記念館ですが、象山の残した書画、日本で初めて成功させた通信機械などが展示され、思想家としてだけではなく、芸術、科学知識に秀でた稀代の天才だったことを改めて認識できました。

 最初に、へえーと思ったのが、名前が「しょうざん」ではなく「ぞうざん」と記述されていることです。ネットで検索すると「しょうざん」でしか象山に変換できませんが、地元では「ぞうざん」と呼ばれています。名前の由来も地元の象山恵明禅寺(ぞうざんえみょうぜんじ)に因んだと言われています。

 そして勝海舟の妹・順を奥さんにもらっています(1852年、象山42歳、順17歳)。この時、勝海舟は30歳くらいで、象山の弟子の立場でした。

 記念館では、象山の一生が8分くらいのアニメのビデオで紹介されていました。日本で大砲の製造に初めて成功したこと。日本で初めて電気通信線を張り、通信の実験に成功したこと等が説明されていました。奥に行くと、象山直筆の書や水墨画が展示されています。西洋学問に通じた先生で、幕末に活躍した人たちの師匠であったくらいしか認識がありませんでしたが、科学者であり、芸術家であったという才気溢れる人物だったと知りました

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佐久間象山の墨画

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佐久間象山の書

 佐久間象山の一生を記念館の資料と、ウィキペディアで簡単にまとめてみます。

・1811年~1864年(明治維新の4年前に京都で暗殺)。松代藩士・佐久間国善の長男として生まれる。父・国善は卜伝流の剣術の達人。松代藩士で、兵学者、朱子学者、思想家。

・1833年に江戸に出て、当時の儒学の第一人者佐藤一斉に学ぶ。1839年に神田阿玉池に私塾「象山書院」を開く。1842年、8代藩主真田幸貫が老中海防掛となると、顧問として海外の事情を研究した。1844年黒川良安と蘭学・漢学の交換教授を行い、オランダの百科事典により洋学の知識を身に付けた。

・1850年には深川の藩邸で砲学の教授を務め、1851年には木挽町(今の銀座の昭和通りの東側)に「五月塾」を開き、砲術、兵学を教える。勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内ら多くの人材を輩出した。その他にも、小林虎三郎、河井継之助、岡見清熙、加藤弘之など多くの門弟がいる。

・1853年にペリーが浦賀に来航。その時、藩の軍議役として浦賀を訪れる。時の老中・阿部正弘に報告書「急務十条」を上げる。

・1854年に門人の吉田松陰がアメリカ密航事件を起こして、この事件に連座し伝馬町の牢獄に入れられ、その後1962年まで8年間松代に蟄居させられる。この間に高杉晋作、久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れ、時世について、激論、象山の学識に感動して去る。松代での蟄居中に、書物で得た知識だけで通信機械を作り日本で最初の通信試験に成功している。

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佐久間象山が作った通信機械

・1862年蟄居を許され、1964年に京都にいた将軍になる前の徳川慶喜に呼ばれ京に上洛。朝廷(公)と諸藩(武)を結び付けて、幕藩体制の再編強化を図ると言う「公武合体」と「開国論」を主張する。その年の7月に京都木屋町にて馬で移動中に攘夷論の武士たちに暗殺される。

 才気あふれる象山先生でしたが、性格は若い時から傍若無人で人を見下すようなところがあったそうです。妹を嫁に出した勝海舟も象山の見識、知識は尊敬するものの、人物的には苦手だったようです。

 攘夷論(外国の夷的を倒す)が盛んだった幕末に、そんなことは無理だから早く開国して日本の国力を付けるべきだといち早く主張した佐久間象山。象山に学んだ弟子たちがその意思を引継ぎ、明治維新にまで導いた歴史を改めて認識できた松代訪問でした。

追記1 三条木橋町で佐久間象山を襲った一人が尊皇攘夷派の熊本藩士の河上彦斎(かわかみげんさい)で、彦斎は「るろうに剣心」の緋村剣心のモデルと言われているそうです。

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