2010年11月11日(木)

江戸時代の繁華街、上野不忍池と根津神社

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 上野不忍池は、人口の池ではなく自然にできた池です。江戸時代から名所として有名で、寛永寺(当時は上野公園全体が寛永寺の境内)の参拝客や近場の行楽地として大いに栄えました。

 不忍池で取れた蓮根を取って、近所の料理屋、御茶屋でよく食べさせたそうです。不忍池の南側(今の上野2丁目、不忍通りと仲町通りの間)辺りは池之端と呼ばれていました(現在は不忍池の西方が池之端の地名になっています)。池之端には、出会い茶屋が多数ありました。出会い茶屋とは、男性と女性が逢引する場所、今で言うラブホテルです。

 出会い茶屋とは別に、不忍池周辺には日陰茶屋もあったそうです。日陰茶屋とは、男色を売る茶屋のこと。男色を好む男性は当時も珍しいことではなく、織田信長と森欄丸などの関係は有名です。また仏教の戒律には、僧侶が女と性交する事を禁止する「女犯(にょぼん)」というものがありました。従って、女色を避けるために男色が寺社で行われるようになり、それが寺社の外にも広がったようです。

 上野広小路という名称が現在も残っていますが、上野松坂屋あたりから上野公園入口までの大通りです。1657年の明暦の大火で江戸の町のほとんどが燃えてしまった後に、火が燃え広がらないようにする火除けのため、広小路がいたるところにできました。上野広小路もこのようにしてできた火除け地です。上野には寛永寺への参拝客、不忍池への行楽客が多数訪れたので、ただ大通りを空けておくのは惜しかったようで、直ぐに移動できる簡易建物の見世物小屋、飲食店、土産物屋など広小路に多数並んだそうです。たくましい商魂です。

 不忍池南西方300mに、菅原道真公を祀った湯島天神があります。湯島天神周辺は、現在でも料理店、ラブホテルが多い場所です。やはり、出会い茶屋が伝統的に多かったからでしょうか。

 不忍池北西方1kmちょっとのところに、根津神社があります。1900年前に千駄木に日本武尊(やまとたけるのみこと)が建てたと言い伝えられていますが、江戸時代に現在の場所に移転しました。五代将軍・徳川綱吉が養嗣子六代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請したもので、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作と言われています。根津神社は、江戸時代は根津権現と呼ばれていました。権現は、元々仏様、菩薩様が人々を救うために仮の姿をして現れることを言いますが、明治に入って神仏分離により、暫く権現の名称を使うことができませんでした。

 根津神社そばにも遊郭があり、江戸時代はたいそう賑わっていたそうです。明治になって、東京大学が近所(本郷、弥生町)に移ってきたことにより、教育上好ましくないと根津遊郭は廃止されました。しかしその名残か、根津界隈には風俗店舗は無いものの、今でも飲み屋さんは多く残り、繁華街の風情を漂わせています。

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