2011年3月6日(日)

日本の近代設計の父、ジョサイア・コンドル

都市鑑定アドバイザリー(株) 不動産鑑定士 田中祥司

 丸の内の三菱ビル一号館が2009年に建て替えられ、事務所部分は丸の内パークビルディング(34階建オフィス)。外周部の低層部分は、丸の内ブリックスクエアとして、建築当時の煉瓦造りの建物が復元されました。丸の内ブリックスクエアは、設計図は残っていなかったのですが、諸々の文献から資料を集め、できるだけ建築当時の建築材料を使って建てられています。

 三菱ビル一号館が、日本発の本格的事務所ビルとして建てられたのは、1894年(明治27年)。この設計を行ったのが、ジョサイア・コンドルです。建て替え後のビルには、三菱ビル一号館美術館が設けられ、初代設計者のコンドル氏を称えるコーナーができています。

 コンドル氏は、1852年ロンドン生まれ。1877年(明治10年)に明治政府の要請により、お雇い外国人として、欧州の近代設計技術を教えに日本に来ました。若干、25歳の時です。東京大学工学部建築学科(当時は、工部大学校)で教鞭を取り、日本を代表する建築家となった辰野金吾氏などを育てました。その後、民間の建築設計事務所を設立し、著名財界人、華族の邸宅などを数多く設計しました。

 コンドル氏の関わった代表作品は、下記のようなものがあります。

①旧宮内省本館(1882年-1923年、関東大震災で損壊)

②鹿鳴館(1883年-1940年)

 場所は、日比谷の旧大和生命ビル、丸の内警察署あたり。海外からの要人を招いて歓迎会、舞踏会が開ける迎賓館として、外務卿井上馨らが計画。ただ迎賓館として使われたのは、約7年間と短かった。その後は、華族会館として使われた。

③ニコライ堂(1891年-現存)

 千代田区神田駿河台。正式名称は「東京復活大聖堂」。ギリシャ正教の本部的存在。日本にギリシャ正教を広めたロシア人大主教聖ニコライにちなんで、ニコライ堂と呼ばれる。関東大震災で被災し、1929年に修復されたが、最初の建物から設計が変わっている。

④三菱ビル一号館(1894年-1968年)

 千代田区丸の内。日本最初の本格的オフィスビル、レンガ造り3階建。コンドル氏は、三菱の建築顧問にもなっており、その後、二号館、三号館の設計も行う。

⑤岩崎久弥茅町本邸、撞球室(1896年-現存)

 台東区池之端。現在は都立公園の岩崎邸庭園洋館となっている。岩崎久弥は、三菱財閥3代目。

⑥岩崎弥之助高輪邸(1908年-現存)

 港区高輪4丁目。岩崎弥之助は、三菱財閥2代目。現在は、三菱開東閣(三菱グループの倶楽部)として使われている。11,200坪と広大な敷地。

⑦三井家倶楽部(1910年-現存)

 港区三田2丁目。三井総領家第10代当主三井八郎右衞門高棟が三井家の迎賓館として建てる。現在は、綱町三井倶楽部(三井グループの倶楽部)として利用されている。

⑧島津忠重袖ヶ崎邸(1915年-現存)

 品川区東五反田 丁目。薩摩藩島津家30代当主の邸宅。現在は、清泉女子大学本館として利用されている。

 1917年には、最後の作品となる古河財閥オーナーの古河虎之助氏の邸宅を、北区西ヶ原1丁目に作りました。古河邸は、1階は完全な洋館ですが、2階は西洋建築と日本建築がミックスした貴重な住宅です。建てられてから9年くらいで、古河虎之助氏が引っ越し。その後古河財閥の迎賓館として使われていましたが、終戦後は連合軍が接収。返還後は、誰も管理せず荒れ放題。その後、旧古河公園として東京都が管理することになり、1982年から7年掛けて大改修しました。現在は、建物部分は大谷美術館が管理(指定管理者制度?)しており、1日数回内部を案内付で見学できます。

 コンドル氏はその後も最後まで日本に住み続け、1920年(大正9年)、67歳で東京で亡くなりました。最後まで日本を愛してくれたコンドル先生は、奥さん(日本人)と、文京区の護国寺に眠っています。東京大学工学部内にも、その功績を称え、ジョサイア・コンドル博士像が建てられています。

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